一礼する自分で決めた穴ぐらへ
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「穴ぐら」とはなんなのだろうか。作者の句は幾重にも伏線が張り巡らされているので、表面からだけでは句の良さを感じることはなかなかに難しい。 ここでは素直に「穴ぐら」とは自分の居場所と考えてみたい。 しかし「一礼する」という上五に、読者はしばらく考えさせられる。 穴ぐらを居場所とすれば、寄居虫(やどかり)もそうだ。成長するたびに殻を替えていく。窮屈になると身にあった殻を探して移る。寄居虫で遊んだことがあるが、殻から出して少し大きめな殻を傍に置くとそこに入っていく。多少大きな殻でも、上手に引きずって歩くのである。しかし、人間はそう簡単にはいかない。穴ぐらとは「心の居場所」なのかも知れない。その居場所に「一礼する」、つまりは感謝の気持。そんなあたたかい「穴ぐら」があってもいい。あるべき居場所は、結局のところは「自分で決めた」ものであろう。 掲句は自足とも決意ともとれる。なかなかに深い意味が込められているのだ。 ところで意外にもこれまで「穴蔵」の句は少ない。その中では一茶の句に注目した。 穴蔵の中で物いふ春の雨 一茶 一茶の「穴蔵」は終焉の「土蔵」と考えれば判りやすいが、この句は一茶51歳のとき。江戸を切り上げて柏原に帰ったばかりで、「これがまあつひの栖か雪五尺」といいつつも帰郷という永年の念願がかなったときなのだ。それなのに一茶は「穴蔵」という。やはり「穴蔵」とは安住の意なのだろうか。そう考えるとほっとする居場所にも思える。 穴という穴からぼくが出て船へ やわらかな穴で家族を考える などの同時句とともに思いは更に広がってくる。穴の中から「出て」また「考えて」そして「一礼する」そんな不思議な穴が、誰にでもあるのだろうか。 |
評 者 |
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備 考 |
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