ヴェイユと日本人数学者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 04:51 UTC 版)
「アンドレ・ヴェイユ」の記事における「ヴェイユと日本人数学者」の解説
シカゴ大時代、ヴェイユは小平邦彦、岩澤健吉らの訪問及び手紙のやり取りを通じて日本人数学者達と次第に親密な関係を結んでいった。その中の一人、中山正(元名古屋大教授)に対しては「中山は1951年に、私の命ではないが名誉を救ってくれた」と述べている。それは日本の数学者達の求めに応じて高木貞治記念号への寄稿予定であった類体論に関する証明に対してのことである。当時アーバナにいた中山はヴェイユの証明中に誤りを見出し、既に東京に送られていたヴェイユ原稿の刊行前での改正に大きく貢献した。それらもあり、ヴェイユは日本での数論のシンポジウムへの招待に対して「とりわけ嬉しく思った」としている。結果も、「見事で楽しくまた実り多い会議」と述べている。その中で、志村五郎、谷山豊の虚数乗法理論のアーベル多様体への拡張へのアイデアがヴェイユと共通しており、かつ三者で補い合う関係にあった為に、自身の新しいものとばかり信じていたヴェイユを大いに驚かせている。
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