ヴィンス・ニール復帰(1997年 - 2003年)
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「モトリー・クルー」の記事における「ヴィンス・ニール復帰(1997年 - 2003年)」の解説
1997年1月、ヴィンスがバンドに復帰。6月に7thアルバム"Generation Swine"発表。(当初、ジョン・コラビのヴォーカルを前提として作られていたが、作業途中でヴィンスの復帰が決定。ヴィンスのヴォーカル・サポートとメンバー間の不仲を取り持つため、暫くは解雇された後のコラビもレコーディング作業に参加していた。)全米チャート4位。チープ・トリックとの全米ツアー中にヴィンスが一時脱退するがすぐ復帰。 1998年よりエレクトラ・レコードを離れ、自らのレーベル「Mötley Records」を設立。 5月にトミーが妻である女優パメラ・アンダーソンへの暴行容疑で投獄される。 トミー出所後の11月に2枚目のベストアルバム"Greatest Hits"をリリース。全米チャート20位。10月~99年3月までレイドロウ、ノイズ・セラピーをサポートに全米ツアー。ツアー中にトミーが脱退をほのめかす。 1999年4月、トミーが正式に脱退。12月にトミーはリンプ・ビズキットのフレッド・ダーストやキッド・ロック、ビースティ・ボーイズのミックス・マスター・マイクをゲストにヒップホップを主体としたソロプロジェクト"Method Of Mayhem"にてソロアルバムをリリース。 バンドはトミーの後任に元オジー・オズボーン・バンドでプレイしていたランディ・カスティロ(英語版)を迎え、『マキシマム・ロック・ツアー1999』でスコーピオンズとともに全米ツアー。 2000年、5月にニッキーのサイド・プロジェクト58、1stアルバム"Diet For A New Amrica"をリリース。 6月、加入したばかりのランディ・カスティロが緊急入院。癌と診断される。 7月にはカスティロ加入後初となるアルバム(8thアルバム)"New Tattoo"を発表。しかし全米チャートは41位と振るわなかった。サポート・ドラマーとして元ホールのサマンサ・マロニー(英語版)を帯同し『マキシマム・ロック・ツアー2000』でメガデス、アンスラックスとともに全米ツアーを行う。 2001年バンドの自伝本、"The Dirt"発売。 2002年3月にカスティロが癌により死亡。 5月、トミーの2ndソロ・アルバム"Never A Dull Moment"リリース。 2003年ニッキーは元L.A.ガンズのトレイシー・ガンズとともにブライズ・オブ・ディストラクション(Brides Of Destruction)を結成。モトリー・クルーの司令塔でもあるニッキーが新バンドを結成したためバンドはほぼ解散状態となってしまう。ブライズは3月に1stアルバム"Here Come The Brides"発表。がニッキーはツアー終了後の12月に脱退。
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