ヴィル=マリーにおける国王の娘たち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/14 03:46 UTC 版)
「国王の娘たち」の記事における「ヴィル=マリーにおける国王の娘たち」の解説
1663年より前には、フォール・ヴィル=マリー、現在のモントリオールに移民する女性たちはすべて、ジャン=ジャック・オリエとジェローム・ル・ロイエ・ド・ラ・ドーヴェルシエールが1641年にパリに創設した「ノートルダム・ド・モンレアル協会」の応募によるものだった。この時移民した女性たちの中には、ジャンヌ・マンス(1641年にこの組織の一員となる)やマルグリット・ブールジョワ(1659年に組織の一員となる)がいた。この組織は、ドーヴェルシエールが既にヴィル=マリーと呼んでいた団体の大元となった。 1663年と1673年に限り、国王の娘たちはケベックに上陸した。そこでアンタンダンのジャン・タロンが建てた家に暮らしていたマダム・ブルボン(アンヌ・ガスニエ)に迎えられた。 国王の娘たちが、ヴィル=マリー(モントリオール)で船を下りたのは、1663年と1664年の夏だけで、そこではマルグリット・ブールジョワが彼女たちを出迎えた。ヴィル=マリーでは、ケベックのような居心地のいい家には受け入れられなかったが、1668年の夏に限り、彼女たちを受け入れるのにいくらか適した家、メゾン・サン=ガブリエルに受け入れられた。この家は、ブールジョワが農場の外に建てたものだった。 こういったカナダの女性たちの助けを得て、国王の娘たちは、ヴィル=マリーの厳しい気候に適応するすべを学び、そして最終的には入植者の妻となった。船が埠頭に着いてから50日間の間に結婚しないと、入植者の男性は漁業や狩猟の権利を取り上げられるため、早く結婚しなければならなかった。加えて、入植者の男性が国王の娘たちの一人と結婚すると、報酬を受け取ることができた。入植者や兵士には50ポンド、士官や官吏、その他社会的地位のある者には100ポンドだった。 1663年から1673年の間にヌーベルフランスに着いたと言われる女性たちで、ヴィル=マリーに向かった者の人数ははっきりしていない。モントリオールとケベックの公文書には、この地で新しく築かれた家庭の名前が残されているが、これも不完全かつ信憑性に欠けるとされている。
※この「ヴィル=マリーにおける国王の娘たち」の解説は、「国王の娘たち」の解説の一部です。
「ヴィル=マリーにおける国王の娘たち」を含む「国王の娘たち」の記事については、「国王の娘たち」の概要を参照ください。
- ヴィル=マリーにおける国王の娘たちのページへのリンク