ヴィスワ作戦前後の強制移住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/28 05:58 UTC 版)
「ヴィスワ作戦」の記事における「ヴィスワ作戦前後の強制移住」の解説
ヴィスワ作戦の前後を含めると、ポーランドにおける住民の強制移住は、3つの段階を経て行われた。 第1段階は、第二次世界大戦の終結の際に生じた。ポーランドとウクライナ・ソビエト社会主義共和国の間で、住民の交換が行われ、ポーランドとソ連の新たな国境の東側に住んでいたポーランド人がポーランドに移送され(およそ210万人とされる)、国境の西側に住んでいたウクライナ人は、1944年9月から1946年4月にかけて、ソ連体制下のウクライナへ送られた(およそ45万人)。一部のウクライナ人とレムコ人は、1944年から1945年にかけて、程度の差はあれ、ある程度まで自発的にポーランド南東部を離れた(およそ20万人)。ポーランドとソ連の間では、1944年9月9日と1945年8月16日に双務協定が締結され、その結果、レムコ人とウクライナ人と合わせて、およそ40万人がウクライナへ移送され、30万人が生まれ育ったポーランド領内に何とか留まることになった。残留した人々は、ポドラシェ県など、かつてルシン人の居住地域であったところに住んでいた。 第2段階は、1947年にヴィスワ作戦によってもたらされた。ポーランド南東部に残留していたウクライナ人とルシン人は、西部・北部領土(回復領)へ強制的に再定住させられた。ポーランド西部への移送は1947年4月28日から7月31日までの間に行われ、13万人から14万人がポーランド国内での再定住を強いられた。 ウクライナ人とポーランド人の強制移住の第3段階は、1951年、ポーランドとソ連の間で、サン川上流部とベルツ(pl:Bełz、en:Belz)付近について、国境線の修正が行われた際に生じた。ポーランドは、プシェムィシルより南、サン川より東の地域を獲得し、ウクライナ/ソ連は、それまでポーランド領だったベルツとその西側を獲得して、両国は住民を交換した。(en:1951 Polish–Soviet territorial exchange 参照)
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