ワケからキミ・オミへとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ワケからキミ・オミへの意味・解説 

ワケからキミ・オミへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 13:59 UTC 版)

ワケ」の記事における「ワケからキミ・オミへ」の解説

スクネカバネをもつ唯一の天皇である雄朝津間稚子宿禰尊允恭天皇)が5世紀中葉皇位につくと国々氏姓大い乱れたため、氏姓制度改革行った允恭天皇倭王の済)はそれまで国造県主制度に代わって、新たに臣・連・君制度打ち立てた。この改革によってカバネとしてのワケ廃止され代わりにキミ(君、公および王)やオミ(臣)が用いられるようになった上宮記逸文にはワケからキミ変遷のあとが記されている。第11代垂仁天皇(伊久牟尼利比古大王)から第26代継体天皇(507-531)に至る9世代系図のうち、伊久牟尼利比古大王の子から3世代はイハツクワケ(伊波都久和希)、イハチワケ(伊波和希)、イハコリワケ(伊波己里和氣)とワケカバネとしているが5世代から7世代継体天皇の母まではアカハチキミ(阿加波智君)、オハチキミ(乎波智君)、ツヌムシキミ(都奴牟斯君)とキミカバネ変更しているのが読み取れる。その変化時期6世紀前半から3-4世代前、つまり5世紀前半となり倭王済であることが確実視される允恭天皇時代となり、臣連君制度の創設一致している。 稲荷山古墳出土鉄剣推定6世紀前半)からはワケからキミへの変化を見ることができる。大彦(意富比垝)から3代-5代まではテヨカリワケ(弖已加利獲居)、タカハシワケ(多加披次獲居)、タサキワケ(多沙鬼獲居)と3世代がワケ獲居)をカバネとしているが、その後ワケ用いず獲加多支鹵大王雄略天皇)の代になってオワケノオミ(乎獲居臣)とオミカバネになっている(ここでワケカバネでなく名前の一部となっている)。ここでも雄略天皇一世代前である允恭天皇時代オミカバネ造られそれまでワケカバネ名乗っていたオオビコの系統オミ変更しているのが読み取れる

※この「ワケからキミ・オミへ」の解説は、「ワケ」の解説の一部です。
「ワケからキミ・オミへ」を含む「ワケ」の記事については、「ワケ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ワケからキミ・オミへ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ワケからキミ・オミへ」の関連用語

1
10% |||||

ワケからキミ・オミへのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ワケからキミ・オミへのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのワケ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS