ロード・クライヴとビクトリアの沈没
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/20 15:54 UTC 版)
「第一次セバーヨス遠征」の記事における「ロード・クライヴとビクトリアの沈没」の解説
イギリスはスペインに宣戦布告したが、南アメリカでの戦闘には関与しなかった。一方でイギリス東インド会社は南アメリカのスペイン植民地の征服に乗り出し、海軍本部から古い戦艦2隻を借りた。60門戦列艦ロード・クライヴと40門フリゲートのアンバスケイドだった。 ロバート・マックダウ率いるこの小艦隊は8月30日にリスボンを出港、リオ・デ・ジャネイロで38門フリゲートのグロリアを含む戦艦2隻、倉庫船5隻、歩兵500と合流した。11月2日、艦隊はリオ・デ・ジャネイロを出港してラプラタ川へ向かい、ブエノスアイレスとモンテビデオを攻撃しようとしたが、いずれもスペイン軍によって固く守備されていたため諦めた。 1763年1月6日、マックダウはコロニア・デル・サクラメントの奪回を決定した。艦隊はサクラメントの近くで停泊して砲撃を開始したが、予想以上の反撃を食らい、3時間の砲撃ののち、ロード・クライヴは炎上して沈没、マックダウを含む272人が死亡した。アンバスケイドとグロリアもひどく損傷して撤退した。 しかし、スペイン軍も無傷で済んだわけではなかった。イギリス=ポルトガル艦隊が到着すると、ビクトリア、サンタ・クルーズ、サン・セノンの3隻はすぐさま近くのサン・ガブリエル島に逃げ、ビクトリアを大砲と火薬とともに自沈させた。自沈を指揮した艦隊の士官たちはすぐに逮捕され、1766年の軍法会議でその臆病さを糾弾された。
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