ロエスレルの意見書
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1887年(明治20年)頃、伊藤博文に提出されたとみられるロエスレルの意見書では、フランス民法は個人主義に傾き過ぎたためにアナキズムに陥って社会が混乱したが、ドイツ民法は親族関係を厚く保護するなど保守的性格を持ち、立憲君主制と親和的であり、当時の日本により適合すると主張されていた。このドイツ民法というのは1888年公布の第一草案ではなく、農村を基盤とするゲルマン法の意味であった。 夫れ泰西の民法は之を大別して二類と為すを得べし。一に曰く仏蘭西、羅馬民法、二に曰く独逸民法即ち是なり。而て余が独逸民法と称するものは独逸本国の民法を云ふにあらず、何となれば独逸連邦の民法は多く羅馬法の浸潤する所たればなり。…余は該草案の適否如何は姑(しば)らく捨て之を論ぜずと雖も…単に該草案のみに依て日本将来の民法を断定せらるるが如きあらば、必ず重大なる困難と不便とを感ぜざるを得べし。…仏国の如きに於ても亦一の法律を制定するに当ては先づ数個の草案を調整するを常例とす。 — 伊東巳代治訳「民法ニ付キロエスレル氏意見」 しかし、独民法典のゲルマン法からの離脱と、それに伴う団体主義の崩壊は、親族法で最も顕著である。
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