ロイヤル・オーク号の反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 22:16 UTC 版)
「ロイヤル・オーク (戦艦)」の記事における「ロイヤル・オーク号の反乱」の解説
大戦後、まず大西洋艦隊に、次いで1926年から地中海艦隊に所属したが、1928年に「ロイヤル・オーク号の反乱」として悪名高い事件が発生した。士官室でのダンスのバックバンドをめぐってバーナード・コラード(Bernard Collard)少将はケネス・ドワー(Kenneth Dewer)艦長とヘンリー・ダニエル副長の二人と意見が合わず、これが何ヶ月にもわたる確執に発展した。艦長らは、少将が二人についてしつこく粗探しをし、乗員の前で二人をしばしば辱めていると非難した。少将も、二人が命令に従わず、少将を士官候補生並みに扱ったと反撃した。艦長らが、少将の上官であるジョン・ケリー中将に告発の手紙を送ると、中将は手紙を即座に艦隊司令官であるロジャー・キース(Roger Keyes)大将に回した。二人の士官と少将との仲が回復不能になっているのを知ると、大将は三人とも解任して帰国させた。このため大規模な演習が延期されることになった。世界中のマスコミはこれをかぎつけて、誇張を含めて「反乱」と呼んだ。事件は一般の注目を集めたため、王まで心配して第一海軍卿であるブリッジマン提督を説明のため召し出したほどだった。 告発の手紙のために艦長らは反抗的文書を書いたとして罪を問われた。世間の注目を集めた軍法会議において二人は有罪とされ、重い懲戒を受けたため、ダニエルはすぐさま退役した。少将もマスコミと議会から批判されて、ブリッジマンからは「より高い地位にはふさわしくない」とされたため、退役せざるをえなかった。事件の結果、海軍当局は士官がその上官を告発する際の手順を再検討することになった。
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