ルーマニアでの戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 21:13 UTC 版)
1472年よりモルダヴィアのシュテファン大公は貢納金の支払いを拒否し、ポーランド、ハンガリー、ヴェネツィア、教皇庁に反オスマン連合の結成を呼び掛かけていた。1474年にメフメトはモルダヴィアにキリア(英語版)、アルバ(en)の要塞の返還を要求するが、要求は拒絶される。 1475年1月のヴァスルイの戦い(英語版)で、オスマン軍はモルダヴィア軍に敗北した。ヨーロッパ諸国はシュテファンの勝利を称賛し、ムラト2世の寡婦はかつてない敗北を喫したと回顧した。しかし、ヴァスルイの戦いはオスマン軍のヨーロッパ方面での戦略に影響を与えるには至らず、シュテファンもオスマン軍の再度の攻撃に備えた連合の結成を呼び掛けていた。1476年5月、メフメトはモルダヴィアへの親征を行い、オスマン軍とクリミア・ハン国から派遣されたモンゴル兵はモルダヴィア各地を蹂躙した。同年7月にメフメトはアルバ渓谷の戦い(英語版)でシュテファンに勝利を収めるが、モルダヴィア兵の抵抗と軍内での疫病の流行、食料の欠乏のために退却を強いられる。
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