ラージンの前半生
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「スチェパン・ラージン」の記事における「ラージンの前半生」の解説
スチェパン・ラージンは、ロシア帝国のドン州、「小ロシア人の集落」と呼ばれたジモヴェーイスカヤ集落(英語版)[要リンク修正]で、ドン・コサックの家で生まれた。 ラージンに関する最も古い記録は、1661年のドン・コサックからカルムイク人への外交使節の派遣文書に見られる。同年、ラージンは白海のソロヴェツキー修道院へ巡礼の旅に出た。その後6年間というもの、ラージンの消息は途絶える。ラージンはTishina川とIlovlya川の間にある湿地帯・Panshinskoyeの盗賊団のリーダーとなって再び登場する。それ以降、ヴォルガ川を行き交う全ての船を脅して金を巻き上げた。 1654年から1667年までのポーランドとのロシア・ポーランド戦争(13年戦争)、1656年から1658年までのスウェーデンとの北方戦争はロシアの人々に重い負担を強いた。ツァーリ専制体制が確立され、徴税と徴兵が強化された。多くの農奴・小作農は南に逃れ、ラージンのコサック盗賊団の仲間になっていった。農民だけでなく下層階級の人々やカルムイク人などの非ロシア民族の人々もまたラージンの一味となった。 ラージンの名が初めて轟いたのは、財宝やモスクワの総主教や金持ちの商人の積荷を積んだ船団を撃破した時である。その後、ラージンは35隻のガレー船からなる水軍でヴォルガを下り、行く手の砦を落としていった。1668年初めアストラハンが差し向けたヴォイヴォダの軍勢を破り、さらにダゲスタンやペルシア(サファヴィー朝)に18ヶ月にわたって侵攻した。
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