ランゴバルド人の侵攻と総督府の成立とは? わかりやすく解説

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ランゴバルド人の侵攻と総督府の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 22:32 UTC 版)

ラヴェンナ総督府」の記事における「ランゴバルド人の侵攻と総督府の成立」の解説

568年アルボイン率いランゴバルド人とその同盟部族集団北イタリア侵攻した。この地域554年まで20年近くにわたり続いたゴート戦争による荒廃からほとんど復興していなかった。東ローマ軍抵抗弱く569年にはメディオーラーヌムミラノ)を奪われた。さらに3年間の包囲戦の末572年パヴィーア落としたランゴバルド人は、ここをランゴバルド王国首都とした。数年のうちにファロアルド1世ゾットランゴバルド人中央イタリア南イタリア征服しそれぞれスポレート公国ベネヴェント公国建てた。しかし572年アルボインが、574年その後継者クレフ暗殺されランゴバルド王国諸公の時代に入ると、ランゴバルド人勢い一時的に弱まった。 これを好機見た皇帝ユスティヌス2世娘婿のバドゥアリウスをイタリア派遣したが、バドゥアリウスはランゴバルド人敗れ戦死した。またバルカン半島混乱渦中にあり、もはや東ローマ帝国イタリア政策注力することができなくなったランゴバルド人食い破られ帝国領イタリア飛び地ばかりとなり、580年ティベリウス2世イタリア大部分喪失した事実認めイタリア領土5つの州(エパルキエス)に分割した。すなわちアンノナリア(ラヴェンナ)、カラブリアカンパニアエミリア、ウルビカリア(ローマ周辺)である。6世紀が終わるまでに、この5州ではそれぞれ新たな支配体系成立したラヴェンナには総督府がおかれ、総督にはラヴェンナ市、港、その周辺(北はポー川ヴェネツィア公国接し、南はマレッキア川でペンタポリス公国接す領域)における、内政軍事教会管理権限与えられた。

※この「ランゴバルド人の侵攻と総督府の成立」の解説は、「ラヴェンナ総督府」の解説の一部です。
「ランゴバルド人の侵攻と総督府の成立」を含む「ラヴェンナ総督府」の記事については、「ラヴェンナ総督府」の概要を参照ください。

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