ラッタナコーシン時代:王都内
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「タイ王国の便所」の記事における「ラッタナコーシン時代:王都内」の解説
王朝年代記によると、ラーマ1世の治世の王の便所(ティ・ロン・プラバンコン)に関する記述があり、「いつも便所を探して降りられたのであるが、今日の大宮殿はそうではなかった。黎明(午前六時ごろ)まではまだかなり時間があり、あたりはまだ薄暗い。ようやく大宮殿の裏手の便所にたどり着いた。」と書かれている。 便所に行くために宮殿から出ることはかなり危険であった。さらに王の殺害を目論む暗殺者が現れたこともあり、より安全なものにするために便所は大王宮内に設置すべきものとされた。 ラーマ2世治世において、サムットソンクラーム県アムパワー郡の王の便所は、密閉された四角の箱と椅子を組み合わせた形をしており、木製であった。便所上部に排泄をするための穴が開いており、内部は中空になっており、内部に入れてある便壺や大きなバナナの葉の容器を取るためにどちらの側からも開けることができる。掃除の際には、従者がこの容器を取り出して容器ごと水の中に投げ捨てる。これによりこの王の便所は掃除が簡単にできるのである。 この王宮における便所の位置は、雑誌『タイ族』(นิตยสารสกุลไทย)に収録された ヂュンラダー・プーミノット(จุลลดา ภักดีภูมินทร์:作家ロダワーンの別のペンネーム)が記した『王宮の便所』(ที่ลงพระบังคน)から推測できる。この文章の中には「いまだ王宮の便所について書かれた本に見たことは一度も無い。人々の間で語り継がれて来たことによると、玉座の裏に小さな部屋があり、王はそちらで排泄をしていた。この小部屋は浴室の近くに作られていたという。」と記されている。排泄後の汚物は、従者が処理をする。王の排泄物の入った便壺は非常に価値あるもので作られていたので、持ち出してしまうと問題がおきる恐れがあった。そこで、従者は一日三枚、バナナの葉で作った容器を作っておき、 王が排泄された後にこの容器に移し替え、川に流した。 時代が下ると王の便所の便器の特徴と材質が変わっていった。西洋文化が移入されると、金、金メッキなどが用いられていた便器が有釉陶器に変わり、排泄壺は受け口が広く、取っ手がついたものになった。さまざまな有色釉陶器が使用され、小花弁紋などさまざまなデザインも施されたのではないかと考えられている。領主の中には洗面や手洗いのための器を命じて作るものも出てきた。ラーマ5世の治世にはヨーロッパ式のドゥシット宮殿が造られ、ハイタンク式水洗便所が導入された。
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