ラダック方面への攻撃、シク軍の反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/21 06:56 UTC 版)
「清・シク戦争」の記事における「ラダック方面への攻撃、シク軍の反撃」の解説
チベット政府は将軍シャタ・ワンチュク・ギェルポ(シェーダ・ワンチュクゲルポ)とウー・ツァン地方の兵を後詰めとして派遣して反撃を強め、ガリをようやく奪還した。ダライ・ラマ11世が即位したころの話である。シク軍はすぐにラダックに引き上げたが、清・チベットの軍勢はレーからわずか1日の地点まで追撃した。 清・チベットの軍勢はほかのシクの守備兵が拠る砦を一掃しながら、ラダックに進撃していた。しかしながら、メーター・バスティー・ラームの軍がチタンで数週間の包囲にたたされていたものの、その前にメーター・バスティー・ラームは240の兵とともにヒマラヤ山脈を横切ってイギリスの拠点であるアルモーラーに向かっていた。 清・チベット軍がレーを包囲し、戦いを仕掛けたとき、ジャンムーから援軍として来ていたディーワーン・ハリ・チャーンドとワズィール・ラトヌン指揮下の援軍が包囲軍を撃退した。 また、シク軍は川をせき止め、清・チベット軍の籠る要塞が水浸しになった。また、清・チベット軍はチュシュルに追いやられ、チュシュルで戦いとなった(1842年8月)。このチュシュルの戦いはシク軍の勝利に終わり、ゾーラーワル・シングの敵を討つことができた形となった。 刀、槍、マスケット銃で武装した清・チベット軍は、イギリス人との接触で大砲、銃などが近代化されたシク軍の強力な兵器に歯が立たなかったのである。軍勢はガリに撤退せざるを得ず、何人かの将校は捕虜となり、レーに連れ去られた。 だが、シクの軍勢もラダックでは危なかった。というのは、厳しい気候条件は高地と寒さに慣れていない兵たちにとって非常に不利であったからである。夏が終わるころ、両軍の間でレーにおいて調停がはじまった。
※この「ラダック方面への攻撃、シク軍の反撃」の解説は、「清・シク戦争」の解説の一部です。
「ラダック方面への攻撃、シク軍の反撃」を含む「清・シク戦争」の記事については、「清・シク戦争」の概要を参照ください。
- ラダック方面への攻撃、シク軍の反撃のページへのリンク