ユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国の継承戦争とプロテスタント同盟・カトリック連盟の結成
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「三十年戦争」の記事における「ユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国の継承戦争とプロテスタント同盟・カトリック連盟の結成」の解説
1607年〜1608年、バイエルン選帝侯マクシミリアン1世が、ルター派の帝国都市ドナウヴェルトをカトリックに改宗させて併合した。1608年の帝国議会は両派が激突し、5月にはルター派諸侯はプファルツ選帝侯フリードリヒ4世を盟主に仰ぎ、新教同盟(ウニオン)を結成した。新教同盟にはオランダが協力し、フランスとの交渉を開始した。 ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン・ウィルヘルムが1609年3月25日に死去すると、継承問題が持ち上がった。ユーリヒ公国、クレーフェ公国、ベルク公国、マルク伯領を連合させた領邦国家であるユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国は、ブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムントやプファルツ=ノイブルク公ヴォルフガング・ヴィルヘルムだけでなく周辺の大国の欲望を喚起させて介入されることとなった。 プロテスタント同盟に対抗してカトリック側は1609年7月10日にバイエルン選帝侯マクシミリアン1世を盟主とするカトリック連盟(リーガ)を結成し、スペインの支持をあてにしていた。フランス、オランダ、イギリスはこれに反対した。ブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムントは新教に改宗し、プロテスタント同盟に加盟、プファルツ=ノイブルク公ヴォルフガング・ヴィルヘルムはローマ教会に入ってカトリック連盟に加盟した。さらにフランスがプロテスタント同盟に、皇帝がカトリック連盟の陣営についた。 スペイン、オーストリア、オランダは繰り返しユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国に侵入したが、フランスのアンリ4世が暗殺され、大きな戦争とはならなかった。1610年10月24日にプロテスタント同盟とカトリック連盟は講和し、他の要求者を排除して1614年のクサンテン条約でブランデンブルクがクレーフェ=ベルクを、プファルツ=ノイブルク公がユーリヒ=ベルクを分割相続した。
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