ヤクザとしての活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 02:19 UTC 版)
地元の富士宮を拠点に愚連隊として活動後、17歳で正式にヤクザとなる。20歳で松葉会系組織に移籍し、トラブルを抱えていた稲川会系組員を日本刀で襲撃。殺人未遂容疑で起訴され、2年10ヶ月の月日を甲府刑務所で過ごす。出所時の1965年は、警察当局の第一次頂上作戦による影響で、全国的に暴力団組織が壊滅・弱体化していた時期であるが、後藤はその情勢下で勢力を保ち続けた山口組傘下川内組に移籍する。 1969年、富士宮市で川内組内に後藤組を設立する。上部団体の川内組は、山口組菅谷組の傘下であり組長の川内弘は菅谷組舎弟を務めていた。1977年に川内が殺害され、川内組が実質的に壊滅すると、後藤は浜松市を拠点とする山口組傘下伊堂組(組長・伊堂敏雄)に舎弟として移籍した。1984年7月、竹中正久を組長とする四代目山口組が発足すると伊堂は引退し、後藤が山口組の直参へ昇格、後藤組も内部昇格の形で山口組の二次団体となった。 後藤は武闘派として、同年に勃発した一和会との山一抗争で積極的に働いた他、渡辺芳則を組長とする五代目山口組の東京進出に際しては、その先駆けとなって勢力の拡大に寄与した。1992年には後藤組組員5人が、暴力団を描いた映画『ミンボーの女』の監督伊丹十三を襲撃した。 2002年7月、山口組若頭補佐に就任し、これにより後藤は山口組執行部の一員となる。その後、六代目山口組が発足した2005年7月に舎弟に直った。
※この「ヤクザとしての活動」の解説は、「後藤忠政」の解説の一部です。
「ヤクザとしての活動」を含む「後藤忠政」の記事については、「後藤忠政」の概要を参照ください。
- ヤクザとしての活動のページへのリンク