モーラス思想への傾倒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 07:07 UTC 版)
「クロード・ロワ」の記事における「モーラス思想への傾倒」の解説
ソルボンヌ大学法学部に入学し、すでに学生時代から雑誌・新聞に寄稿し始めた。当初は王党派右翼のシャルル・モーラスの思想に傾倒し、1935年にモーラスが主宰したアクション・フランセーズ学生連盟の月刊機関紙『フランス学生』、次いで機関紙『アクション・フランセーズ』や『ルヴュ・ユニヴェルセル(フランス語版)(世界評論)』に寄稿。さらに、同じくアクション・フランセーズのジャン・ド・ファブレーグ(フランス語版)、ジャン=ピエール・マクサンス(フランス語版)らを中心とする「青年右派(フランス語版)」に関わり、機関紙『反乱者』やファブレーグが主宰する『ルヴュ・ドュ・シエークル(フランス語版)(世紀評論)』誌に寄稿した。これらの雑誌には、当時、モーリス・ブランショも寄稿しており、クロード・ロワはブランショと同じ道を歩んでいる。すなわち、極右への傾倒と転向である。1936年に詩人ジュール・シュペルヴィエルを介して極右週刊紙『ジュ・スイ・パルトゥ(フランス語版)(私は偏在)』の編集長ロベール・ブラジヤックと知り合い、同紙に寄稿。多くの記事を書いたが、反ユダヤ主義的な傾向は一切なく、すべて文学に関するものであり、実際、戦間期に外国文学を積極的に紹介したことで国際的に知られることになった『新フランス評論』誌にも多数の記事を寄せている。これはジャン・ポーランが戦前・戦後の30年にわたって編集長を務めた文芸誌であり、以後、ポーランと親交を深めることになった。
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