メルシヴァンの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 06:05 UTC 版)
「1101年の十字軍」の記事における「メルシヴァンの戦い」の解説
十字軍は5つの集団に分かれていた。ブルゴーニュ人部隊、レーモンと東ローマ帝国軍の混成部隊、ドイツ人部隊、フランス人部隊、ロンバルディア人部隊の5つである。この地は非常に乾燥した開けた平原であり、セルジューク朝連合軍の主力をなすテュルク騎兵にとっては理想的な戦場であった。 会戦初日はテュルク騎兵が十字軍を包囲にかかった。翌日、コンラートはドイツ騎士部隊を率いて突破を試みたが失敗した。彼らはセルジューク軍の包囲を破れなかっただけでなく、十字軍本隊に戻ることができずに近くの砦に孤立してしまう。 3日目はそれまでに比べ平穏であり、激しい戦いはほとんど起こらなかったが、4日目には十字軍は包囲を破るべく死に物狂いの攻撃を行った。しかしルーム・セルジューク朝、シリア・セルジューク朝、ダニシュメンド朝それぞれの軍は協力して戦い、十字軍の損害は大きく、攻撃は失敗に終わった。前衛にいたロンバルディア人部隊は撃破され、ペチェネグ人部隊は逃走し、フランス人とドイツ人の部隊も退却を強いられた。レーモンは岩の上で身動きが取れなくなり、エティエンヌとコンラートに救出された。 5日目に入るとセルジューク朝連合軍が総攻撃を開始、十字軍の陣地は占領され、騎士たちは女子供や聖職者を見捨てて逃げ去った。残された人々は殺されるか奴隷として売られた。ロンバルディア人のほとんどは馬に乗っておらず、容易にテュルク騎兵に捕捉され、やはり殺されるか奴隷にされた。レーモン・ド・サンジル、ブロワ伯エティエンヌ、ブルゴーニュ伯エティエンヌは北へ逃れ、黒海沿岸にあった東ローマ帝国の飛び地スィノプにたどり着き、船でコンスタンティノープルへ帰った。ミラノ大司教アンセルモ4世も戦場から離脱できたが、戦いの傷がもとでコンスタンティノープルで没した。
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