ムウタディドの下での司法と刑罰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 06:20 UTC 版)
「ムウタディド」の記事における「ムウタディドの下での司法と刑罰」の解説
ムウタディドの下での司法体制の特徴について、マルティ=ダグラスは「サディズムに近い過酷さ」であったと表現している。過ちに対して寛容であり感傷や愛情の表現を理解していた一方で、怒りを呼び起こされた場合には非常に独創的な方法による拷問に訴え、さらには自身の宮殿の下に特別な拷問部屋を設置していた。マスウーディーやマムルーク朝の歴史家であるサファディー(英語版)などの年代記作者たちは、カリフが囚人たちに加えた拷問やバグダードにおいて囚人たちを公衆に晒すことで見せしめにするという慣行をかなり詳細に説明している。例としてカリフが囚人たちの体を膨らませるために鞴を用いたり、あるいは落とし穴へ体を逆さまにして埋め込んでいたと記録している。また、同時に両者は国家の利益に適うものとしてムウタディドの厳しさを正当化している。サファディーはアッバース朝の創設者であるサッファーフ(在位:750年 - 754年)と比較してムウタディドを「サッファーフ2世」と呼んだが、これについてマルティ=ダグラスは、王朝の運勢の回復を強調しているだけではなく、サッファーフの通り名である「血を流す者」という意味を率直にほのめかしていると指摘している。
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