ミーシンとの確執
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 09:19 UTC 版)
「アレクセイ・ヤグディン」の記事における「ミーシンとの確執」の解説
元コーチのアレクセイ・ミーシンについて、ヤグディンは自叙伝で次のように振り返っている。ミーシンは国際大会で活躍するようになってからもなかなか自分に目を向けてくれなかった。1997年にウルマノフが休場すると自分の指導に集中してくれたが、エフゲニー・プルシェンコが登場するとそちらに目を向け始めた。また、自分のやり方を押し通そうとコーチに反論するヤグディンよりも、コーチに従順なプルシェンコの方が気に入ったのだろうと分析している。さらにヤグディンは、「ミーシンと僕はしばしば衝突したものの、彼を人間として嫌ったことはなかった。リンク上では独裁者のような彼も、それ以外はとても興味深く頭のいい人だった」と語っている。しかし、ヤグディンのライバルであるプルシェンコのコーチとして、ミーシンはヤグディンの評判を下げる悪口を言い続けたため、ソルトレイクシティオリンピック後の記者会見で、ヤグディンは関係者への謝辞を述べた後、ミーシンに触れて「別離の後、僕の悪口をたくさん言ってくれたことに感謝した。彼のそんな言動は、僕が厳しい練習に耐え、こうしてオリンピックチャンピオンになれた理由の一つだと説明した」。1998年スケートアメリカの期間中にヤグディンが収入の一部を小切手で手渡した際の会話が、2人がまともに話をした最後の機会だとしている。ミーシンのもとを離れるにあたって、ミーシンと親密なロシア連盟の会長から、タラソワのもとに移るならば今後はサポートをしないと宣告された、ともしている。 ミーシンとの関係修復はなされていないものの、2011年3月8日にサンクトペテルブルクで開催されたミーシンの70歳の誕生日を祝うアイスショーに、ヤグディンは同僚と共に祝賀のビデオメッセージを送っている。
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