マンハイムへの遷都
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 16:40 UTC 版)
「ハイデルベルク城」の記事における「マンハイムへの遷都」の解説
1697年、プファルツ継承戦争を終結させたレイスウェイク条約により、ようやくわずかな平安がもたらされた。城を破壊し、まだ使える部分は渓谷に造営する新しい宮殿に利用するという計画が立てられた。しかしこの計画の遂行は困難であるため、城は応急処置的に修復されることとなった。同時にカール3世フィリップは城を完全に立て替える計画も描いたが、資金難のためこの計画は先送りされた。また選帝侯は、聖霊教会をカトリックに転向させたために市のプロテスタント信者と争いになっていた。聖霊教会をカトリックの宮廷教会に変更しようとする彼の計画をプロテスタント教徒らは手を尽くして妨害しようとした。こうしたことから、宮廷をマンハイムに移転する計画が持ち上がり、選帝侯はハイデルベルクに対する興味を失った。1720年4月12日、彼は宮廷をすべての官庁と一緒にマンハイムに移転すると発表した。選帝侯はこの古来の首都を運命の手に委ねるが、「路傍の草に至るまで移転する」つもりだと発言した。 後継者のカール・テオドールは一時期、居館をハイデルベルク城に戻す計画を立てた。しかし1764年6月24日、立て続けに2発の稲妻がホールの建物に落ち、城はまたもや炎上した。選帝侯はこれを神の意志と見なし、計画は中止となった。 その後何十年もの間、必要な修復を立案する者もあったが、ハイデルベルク城はおおむね廃墟として過ごした。
※この「マンハイムへの遷都」の解説は、「ハイデルベルク城」の解説の一部です。
「マンハイムへの遷都」を含む「ハイデルベルク城」の記事については、「ハイデルベルク城」の概要を参照ください。
- マンハイムへの遷都のページへのリンク