ペドロ・カルデロンとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 05:22 UTC 版)
「ルクレツィア・ボルジア」の記事における「ペドロ・カルデロンとの関係」の解説
長きに渡ったジョヴァンニとの結婚無効騒動の間に、ルクレツィアがアレクサンデル6世の侍従であるペドロ・カルデロンと性的関係を持っていたのではないかといわれている。ボルジア家を敵視していた人々からは、ルクレツィアが未だ結婚の無効が認められていなかったにもかかわらずカルデロンの子供を身篭ったと糾弾された。1497年6月にルクレツィアはサン・シスト修道院に身を隠し、自身の結婚に関する騒動が決着する12月までこの修道院に篭り続けている。1498年2月には、ルクレツィアの情人だといわれていたカルデロンの胴体と侍女パンタシレアの遺体がチベレ川で発見されている。1498年3月にフェラーラ公国の大使がルクレツィアが密かに子供を出産したと主張していたとも言われているが、この説は複数の情報によって否定されている。ただし、ルクレツィアがビシェーリエ公アルフォンソ・ダラゴーナと結婚する前年に、ボルジア家の邸宅で一人の子供が生まれているのは間違いない。この男子はジョヴァンニ・ボルジアと名づけられたが、歴史家たちからはジョヴァンニではなく「ローマの子供 (Infans Romanus)」として知られている。 1501年に、ジョヴァンニ・ボルジアに関係する二通の教皇勅書が出されている。一通目の文書には、ルクレツィアの兄チェーザレが結婚前に他の女性に生ませた庶子がジョヴァンニであることが記されていた。二通目の文書にはジョヴァンニがアレクサンデル6世自身の子供であるという、一通目の勅書とはまったく異なる内容が記されていた。ジョヴァンニはルクレツィアが生んだ子供であるという噂が根強く残っているが、どちらの教皇勅書にもルクレツィアの名前は出てきておらず、ルクレツィアの子供説が立証されたことはない。二通目の文書は長い間秘匿されており、ジョヴァンニはチェーザレの子供として育てられた。チェーザレがカメリーノを陥落させた1502年にジョヴァンニはカメリーノ公に任じられており、このことからもジョヴァンニがヴァレンティーノ公チェーザレの最年長の息子だとみなされていたことが分かる。アレクサンデル6世の死後にジョヴァンニはルクレツィアが嫁いだフェラーラを訪れ、二通目の教皇勅書に従って自身とルクレツィアが異母姉弟であるということを受け入れた。
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