ヘーゲル学派の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/13 09:48 UTC 版)
ヘーゲルの死後、1835年にヘーゲル学派の神学者ダーフィト・シュトラウスによって書かれた「イエスの生涯」の見解によって、ヘーゲル学派が分裂した(この辺の事情は青年ヘーゲル派の項などを参照されたい)。シュトラウスによって、『イエスの生涯』のようにキリスト教の解釈を認めるのが左派(青年ヘーゲル派)、部分的に認めるのが中央派、否定するのが右派(老ヘーゲル派)と区分した。この時期、ヘーゲル学派に属していた学者は、70人以上にも及んだ。なお、派閥の区分は必ずしも厳密ものではなく、派内でもさまざまな意見が聞かれたものであった。 その後、主導的になったのは、青年ヘーゲル派であり、若きマルクスもここに名を連ねていた。その後右派は、忠実にヘーゲルの著作の刊行、学説の解説などに努めたが、「死せる犬」となりつつあるヘーゲルの哲学に固執し、政治的にも時代の波に乗り遅れてしまった。また中央派はその後、ヘーゲルの考えに則って、哲学史の編纂に従事した。このように分裂後、様々な道を歩み始めたが、右派、中央派は、その後脈々ヘーゲルの哲学の伝承に努め19世紀後半の第二グループに受け継いだ。左派は政治的・歴史的なあり方をめぐって、早々と派としての統一性を失い、1840年代半ばには消滅していった。より正確に言えばその後さまざまな学者によって、発展的に解消されたという表現をするべきであろう。
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