ヘンリー・フラグラーの鉄道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 17:54 UTC 版)
「エバーグレーズの排水と開発」の記事における「ヘンリー・フラグラーの鉄道」の解説
ディストンが土地を購入して、現金の裏付けができた内国改良基金は鉄道敷設計画を支援し、石油業界の大立者であるヘンリー・フラグラーが休暇を過ごしたセントオーガスティンに魅せられるようになった時に、その機会は自ずと訪れた。フラグラーは1888年に、セントオーガスティンに豪勢なポンセ・デ・レオン・ホテルを建設し、土地を購入して半島の東海岸に沿った鉄道の建設を始め、先ずはジャクソンビルからデイトナビーチに、さらに1893年には南のパームビーチまで延伸させた。フラグラーは、パームビーチの町があるバリアー島から川向いにホテルや鉄道労働者の町、「スタイクス」を設立し、それがウェストパームビーチになった。リゾートホテルを建設すると共に、準州時代の前進基地を観光地に変え、鉄道に沿った土地を柑橘農園に変えさせた。 1894年から1895年にかけての冬は降霜が激しく、南はパームビーチまで柑橘類の木を枯らした。マイアミ住人のジュリア・タトルがフラグラーにオレンジ原木の花を送り、マイアミに招待して、さらに南に鉄道を伸ばすよう説得した。フラグラーはそれ以前に何度か彼女の要請を断っていたが、遂に折れて、1896年までに鉄道はビスケイン湾まで伸びた。最初の列車が到着してから3か月後、マイアミ住人512人の全員が住民投票で町の法人化を決めた。フラグラーはマイアミを全米にむけて「魔法の都市」として宣伝し、ロイヤルパーム・ホテルがオープンした後は、極めて裕福な人々の第1の観光地となった。
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