ヘンリー・クロムウェルの統治
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「清教徒革命」の記事における「ヘンリー・クロムウェルの統治」の解説
クロムウェルが護国卿に就任した1653年頃、総督府はフリートウッドの下でバプテストが政権を主導していた。彼らは復讐心に燃え、カトリック信徒は民衆にいたるまで強制移住させるべきという主張がかまびすしくなってきていた。バプテストは軍事支配を通して中央・地方の政治にも介入し勢力を増大、1652年にはカトリック信徒を西部のコノートへ強制移住させる政策を進め、労働力を減らしアイルランドの状況を悪化させた。一方、この頃クロムウェルは保守化してきており、政権の安定のために過激な思想を抑え込もうとしていた。 1654年12月25日、クロムウェルは4男のヘンリーをアイルランド軍最高司令官に任命し、フリートウッドとの衝突が懸念されヘンリーのアイルランド行きは遅れたが、翌1655年7月にアイルランドへ赴任させ9月にフリートウッドと交代、かの地の安定化をはかった。現地に赴任したヘンリーはバプテストでも独立派でもなく、バプテストを遠ざけてニュー・イングリッシュによる統治を行い、バプテストの政策を撤回して蜂起以前の体制に徐々に戻していった。これには、クロムウェルの腹心かつヘンリーの助言者で議会派のアイルランド貴族でもあるブロッグヒル卿ロジャー・ボイル、ヘンリーの秘書ウィリアム・ペティ、アイルランドの聖職者エドワード・ワース(英語版)の力による所が大きかった。しかし、ヘンリーに協力してバプテストに代わり中央・地方に復帰したニュー・イングリッシュと対照的に、オールド・イングリッシュの勢力はクロムウェルの征服で排除され著しく減退していた。
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