ヘッセンとバーデン=ヴュルテンベルクの狭間で
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「バート・ヴィンプフェン」の記事における「ヘッセンとバーデン=ヴュルテンベルクの狭間で」の解説
1945年9月19日、アメリカの軍事統治政府はグロス・ヘッセン(大ヘッセン)とヴュテンベルク=バーデンの成立を宣言した。ヘッセンのバート・ヴィンプフェンは、これで、バーデンのジンスハイム郡とヴュルテンベルクのハイルブロン郡に挟まれる形になり、ヴュテンベルク=バーデンに完全に囲まれてしまった。同年11月26日、占領軍当局は、この街は将来的にはジンスハイムが管轄すべきであると指導した。こうした地方当局の、あるいは地方指揮官の指示により、バート・ヴィンプフェンは、今日もなお州法上ヴュテンベルク=バーデンの一部なのである。シュトゥットガルトの高等地方裁判所も1951年3月6日にこの見解に同意している。 住民の一部は伝統的なヘッセンに、一部は実質的なヴュルテンベルクのハイルブロン郡に帰属意識をもっており、再編論議は不満の種になっているが、一方でヘッセンも飛び地の返還を要求している。これに関して、1951年4月29日に住民投票が行われた。この結果、0.7%がジンスハイム郡に所属、41%がヘッセンへの返還、57%がハイルブロン郡への帰属に投票した。ハイルブロン郡へは1952年5月1日に帰属することとなった。 この結果にもかかわらず、ヘッセンは、バート・ヴィンプフェンは現在もその版図の一部であるとの立場を主張し、バーデン=ヴュルテンベルク州が一時的に運営することに同意したのだと説明している。こうしたことから、州法上の帰属は今日なお最終的に明らかになってはいない。しかし、バート・ヴィンプフェンは現在、事実上完全にバーデン=ヴュルテンベルク州の行政、法律に組み込まれており、現在の状況を変えることはありそうにない。 カトリック教会の立場では、この街は現在もヘッセンの飛び地の扱いで、マインツ司教区に所属している。
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