ヘイズコード廃止まで(1954年 - 1968年)
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1950年代後半ごろから、『或る殺人』(1959年)、『去年の夏 突然に』(1959年)、『階段の上の暗闇』(1961年)、『007 ゴールドフィンガー』(1964年)といった露骨な描写を含む映画が上映されるようになった。 MPAA は映画のシーンをカットするようなことはしなかったものの、これらの映画をしぶしぶ承認した。ビリー・ワイルダーの『お熱いのがお好き』(1959年)は女装を題材としていたことからMPAAの承認なしで上映されたが、大ヒットしたためヘイズ・コードの威力は弱まった。 1960年初頭から、1930年代の映画に見られたような性を題材とした映画が増えてきた。MPAAもいやいやながら承認し、シーンをカットするようなことはしなかった。1966年に「成人の鑑賞が望ましい」( "suggested for mature audiences" (SMA))というラベルに切り替わってから、ヘイズ・コードの順守は重要なことではなくなってきた。また、同年、ワーナーブラザースが映画『バージニア・ウルフなんかこわくない』を公開した際、MPAAの会長に就任したばかりのジャック・ヴァレンティは、 映画の中に汚い言葉があることを見抜いた。交渉を重ねた結果、セックスを意味する"screw"を消したが、"hump the hostess"(女主人とヤる)や'fuck'といった他の箇所は削除しなかった。その映画は、下品な言葉があったにもかかわらず ヘイズ・コードの承認を得たことを示すこととなった。
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