ブラジル独立百年記念万国博覧会とは? わかりやすく解説

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ブラジル独立百年記念万国博覧会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/28 22:25 UTC 版)

EXPO 1922–1923
主要建築のひとつ、カラボッソ宮殿の絵葉書
概要
BIE区分 未区分博覧会
名称 ブラジル独立百年記念万国博覧会
観客数 約300万人[1]
会場
ブラジル
都市 リオデジャネイロ
会場 アヴェニーダ・リオ・ブランコおよびグァナバラ湾沿岸地区
登録博覧会
前回 サンフランシスコ万国博覧会
次回 フィラデルフィア万国博覧会(独立150周年)
認定博覧会
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概要

1922年9月7日から1923年3月23日(または3月31日)にかけて、当時のブラジル連邦共和国の首都であったリオデジャネイロにて、祖国の独立(1822年9月7日)から100周年を祝して「ブラジル独立百年記念万国博覧会」が開催された[2][3]。本博覧会は、ブラジル政府が「近代国家としての姿」を内外に示す機会と位置付け、工業・移民・都市衛生・教育・交通インフラの発展を展示テーマとした[1]。来場者数は300万人超(当時の国内人口の約10 %に相当)とも報じられた[1]

背景

ブラジルは1822年9月7日にポルトガルからの独立を宣言した。この100周年を控え、第一次世界大戦後の国際情勢や国内の都市改造・産業振興の機運と重なり、1922年に記念博覧会の開催が決定された[3]。リオデジャネイロ市は中心部の都市再整備、特にモロ・ド・カステロ(Morro do Castelo)の切り取り・整地など大規模な都市改造を併行し、博覧会を契機とした都市景観の刷新を図った[1]

会期・会場

開催期間:1922年9月7日~1923年3月23日(または3月31日)[3]

会場:リオデジャネイロ市・グァナバラ湾沿岸およびアヴェニーダ・リオブランコ(Avenida Rio Branco)沿線地区に、国家館、州館および外国館などが新設された。[1]

参加国:およそ14〜16カ国(アルゼンチン、アメリカ合衆国、日本、フランス、イギリス、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、ポルトガル、メキシコ等)[3]

主な展示・意義

本博覧会では、以下のような展示および意義があった。

産業パビリオン、大型・小型工業館、農業・道路館、食料館、統計館、狩猟・漁業館、宝飾館、ポルトガル記念館など、多様なテーマ館が設けられた[3]

外国館として、英国館には大英戦艦「HMS Hood」「HMS Repulse」が期間中に寄港し、英国の支援と展示が象徴的に行われた[4]

ブラジル政府は、本催事を通じて「ブラジルは近代国家である」「工業・技術立国へ向かう」といったイメージを国内外に発信した[1]

一方で、先住民・アフロ・ブラジル系住民の表象が乏しく、文化・人種的な葛藤・近代化批判の視点も存在した[1]

遺産と影響

博覧会会場として整備された地域の多くは、その後も都市インフラ・公共施設として活用された[3]

展示館・パビリオンの一部がその後国立歴史博物館(Museu Histórico Nacional)などの施設として転用された[5]

本博覧会は、南米における大規模国際博覧会の先駆けのひとつとなり、都市近代化・国家イメージ構築のひとつのモデルとされている[1]

日本人の参加

日本館(Pavilhão do Japão)

日本人にとって、単なる国際博覧会への参加を超えて、日本の移民政策・通商外交・文化交流の初期的展開として歴史的意義を持つものとされている。時期的には、日本人移民の本格的な増加の直前段階に位置していた。

1922年9月7日の ブラジル独立百年記念万国博覧会開会式に際し、日本政府は特派大使を派遣し、海軍練習艦三隻を参加させた。特派大使には駐伯公使の堀口九萬一が任命された[6]。練習艦「浅間」「磐手」「出雲」は同年9月3日にリオデジャネイロ港に入港し、9月6日に国書奉呈式が行われ、翌9月7日の博覧会開会式に出席した[6]。さらに、在留邦人の寄付により、リオデジャネイロ市の大通り「アヴェニーダ・リオ・ブランコ」に豪華な金灯籠を建立する計画があったが、資金調達が難航したため実現には至らなかった[6]

日本館は「古代のパゴダ風」の建築様式を採用し、材料を日本から持ち込み、日本人作業員によって設営されたという記録がある[7]。この建築スタイルは、日本が近代化を進めつつ同時に伝統的文化の象徴性を海外に示そうとした意図の表れとも考えられる。

日本がブラジル独立百年記念万国博覧会に公式参加した1922年当時、ブラジルへの日本人移民は始まって間もない時期であった。日本人移民第一船「笠戸丸」がサントス港に到着したのは1908年であり、それから14年後の博覧会は、両国の関係を象徴的に示す国際的舞台となった[6]

博覧会に合わせて派遣された堀口九萬一特派大使と日本海軍練習艦隊の来伯は、在ブラジル日本人社会にとっても大きな出来事であり、ブラジル政府・国民に対して日本の存在を強く印象づけるものとなった[6]

当時ブラジル国内には約3,000〜4,000人規模の日本人移民が存在しており、博覧会開催を契機に日伯両国の友好が深まり、1920年代後半以降の本格的な移民増加(特にサンパウロ州を中心とする移住事業)へとつながったとされている[6]

日本が当時、南米・ブラジルという遠隔地の国際博覧会に参加したことは、海外へ日本文化および工業・技術力を発信するという意味合いが強かったと考えられる。また、展示建築に「日本からの材料輸送・日本人作業員参加」があったという記録は、国家としての“モダンだが伝統を併せ持つ日本”というイメージを海外に打ち出す機会として活用された可能性がある。

脚注




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