フォーイとパンサーの艦長としてとは? わかりやすく解説

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フォーイとパンサーの艦長として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/07 16:32 UTC 版)

リチャード・レストック」の記事における「フォーイとパンサーの艦長として」の解説

1706年4月29日32門艦フォーイの指揮を執ったが、9月アリカンテ降伏報せ届けるために帰国したスペインにもどると同年12月アルメリア沖でフランス64門艦1隻を破壊した続いて1707年にサー・ジョージ・ビングと合流してトゥーロン包囲戦陸軍支援したが、包囲失敗終わった。翌1708年ミノルカ島の占領にもフォーイを率いて参戦した1709年4月14日アリカンテからリスボンへの航行中敵軍40フリゲート2隻に遭遇したが、2時間にわたる海戦の末に降伏余儀なくされた。レストックは直後捕虜交換帰国したが、船を失ったことで軍法会議かけられ1709年8月31日無罪放免された。 続いて西インド諸島1710年から1712年まで戦列艦ウェイマス英語版)を指揮したウェイマス退役すると、レストックは5年間半給になり、1717年バルト海ジョージ・ビング艦隊の1隻であるパンサー英語版)の指揮を執った。レストックは船7隻で構成される小艦隊指揮ゆだねられヨーテボリ沖やスカゲラク海峡巡航してスウェーデン私掠船対処した。レストックはビングにいい印象与えたらしく、ビング1718年パッサロ岬の海戦でレストックを旗艦バルフルール乗せてsecond captainにした。

※この「フォーイとパンサーの艦長として」の解説は、「リチャード・レストック」の解説の一部です。
「フォーイとパンサーの艦長として」を含む「リチャード・レストック」の記事については、「リチャード・レストック」の概要を参照ください。

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