ピオ5世によるミサ様式
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 06:04 UTC 版)
「トリエント・ミサ」の記事における「ピオ5世によるミサ様式」の解説
しかしトリエント公会議以前、ミサの形式は国や地域によってさまざまで統一された様式がなかった。宗教改革運動の波及に対してカトリック教会の求心力を高めるためにもミサの様式の統一が緊急課題となった。またプロテスタントの教会では、従来のミサのやり方をいろいろと改めたりミサそのものを廃止するなどの動きが盛んになったこともあり、個人によるミサの改変を防ぐためにもミサ様式の統一が必要であった。 16世紀にピオ5世が実行したことは、それまでローマと西欧の多くの地域で使用されていたローマ・クリアのミサ典書(Curiae Missale) を、「ローマ・ミサ典書(Missale Romanum)」として1570年に出版したことであり、ピオ5世によって出版されたのは「新しい」ミサ典書ではなかった。 ピオ5世は統一されたミサ様式の使用を求めつつも、200年以上の伝統を持つミサ様式に関しては存続を認めた。認められたものの中にはミラノを中心に行われていたアンブロジウス典礼、トレドとマドリッドで行われていたモザラベ典礼などがあり、12世紀以来の伝統を持つカルメル会、カルトゥジオ会、ドミニコ会の独自の典礼様式も認可された。ポルトガルで行われていたブラガ典礼などの様式はこのときに失われたと考えられている。ピオ5世はこのミサ様式の改定と統一の意味を、初代教会と教父たちの典礼様式に立ち戻ることと考えていた。
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