ピエレット・アラリー
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ピエレット・アラリー
Pierrette Alarie |
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1946年、CBCラジオに出演中のアラリー
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生誕 | Marie Marguerite Pierrette Alarie 1921年11月9日 ![]() モントリオール |
死没 | 2011年7月10日 (89歳没)![]() |
教育 | コンセルヴァトワール・ラサール カーティス音楽院 |
職業 | ソプラノ |
活動期間 | 1938年 - 1970年 (歌手としての活動期) |
受賞 | カナダ勲章 (CC) フランス芸術文化勲章 ほか |
ピエレット・アラリー(Pierrette Alarie, 1921年11月9日 - 2011年7月10日)は、カナダのコロラトゥーラ歌手、女優、声楽教師。
経歴
アラリーは指揮者のシルヴァ・アラリーと、歌手で女優の[1][2]アマンダ・アラリーの子としてケベック州・モントリオールで生まれた。アラリーは早くから声楽と演技を学び、はじめは子役として、のちにポピュラー音楽の歌手としてラジオに出演した。やがて、ジャンヌ・モーブールやヴィクター・イサウレルから声楽を学び、1938年にラルフ・ベナツキーのジングシュピール『白馬亭にて』でデビューを果たし、ドニゼッティの『連隊の娘』のマリーや、グノーの『ミレイユ』のタイトル・ロールを歌った。1943年にはカーティス音楽院の奨学金給費学生となり、1946年までソプラノ歌手のエリーザベト・シューマンの薫陶を受けた[3]。1945年にはシューマンの励ましでメトロポリタン・オペラのオーディションに応募し第3位に入賞[2]、ブルーノ・ワルターの指揮による『仮面舞踏会』のオスカル役でメトにデビューした[4]。同劇場にはオッフェンバックの『ホフマン物語』のオランピアや、モーツァルトの『後宮からの誘拐』のブロンデなどで3シーズン出演した。
1940年頃にフランス系カナダ人テノール歌手のレオポルド・シモノーと出会い[4]、1946年に二人は結婚した。1949年には夫婦でフランスに渡り、アラリーはパリのオペラ=コミック座にデビューした。シモノーとのデュオ活動はヨーロッパで評判になり、エクス=アン=プロヴァンス、ザルツブルク、グラインドボーン、エディンバラ、ウィーン、ミュンヘンなどの歌劇場の音楽祭に招待された。アメリカでは、サンフランシスコ、フィラデルフィア、ニューヨーク、ニューオーリンズなどでオペラやリサイタルに出演したほか、カナダ本国ではカナディアン・オペラやバンクーバー・オペラで定期公演を開き、CBCテレビジョンやラジオなどのメディアにも出演した。二人の最後の公演は1970年11月24日にモントリオールで開催された、ヘンデルの『メサイア』であった。
アラリーは歌手としての活動からの引退後は声楽教師としてモントリオールのヴァンサン=ダンディ音楽学校で教鞭を執り、1972年に夫婦でサンフランシスコに転居し[5]、夫が教えていたサンフランシスコ音楽院でオペラ演出を指導した。1973年から1977年まではバンフの芸術創造センターで教え、1978年にはビクトリアのヨハンセン芸術学校の招聘により教授となり、1982年には同校に転任し夫と協同でオペラ団体「カナダ・オペラ・ピッコラ」を設立し、1988年まで運営した。
私生活ではシモノーとの間にイザベルとシャンタルという2人の娘がいた。2011年7月10日、アラリーはブリティッシュコロンビア州のビクトリアにて、老衰のために89歳で死去した。
受賞歴

- 1959年 - カリクサ・ラヴァレ賞
- 1967年 -
カナダ勲章オフィサー
- 1990年 -
フランス芸術文化勲章シュヴァリエ
- 1994年 - マギル大学名誉博士
- 1996年 -
カナダ勲章コンパニオン
- 1997年 - ケベック州国家勲章騎士
- 2003年 - 総督舞台芸術賞
- 2005年 - カナディアン・オペラ名誉の殿堂入り
- 2007年 - オーパス賞
ディスコグラフィ(一部)
- ヴェルディ『仮面舞踏会』イリチュ、ピアース、ウォーレン、ハーショー、アントニチェリ指揮、メトロポリタン歌劇場管弦楽団(1947年)
- モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』レーフス、マルチェロ・コルティス、リザネク、マルティニス、シモノー、エラルド・コーダ、アリエ、ロスバウト指揮、パリ音楽院管弦楽団(1952年)
- ビゼー『真珠採り』シモノー、ビアンコ、ドプラ、フルネ指揮、コンセール・ラムルー、エリザベート・ブラッスール合唱団(1953年)
- オッフェンバック『ホフマン物語』シモノー、ダンコ、ロンドン、ウェスト、エルンスター、カペッキ、チェーザリ、デスタン、エツィオ・デ・ジョルジ、リー・シェーネン指揮、ウィーン国立歌劇場管弦楽団(1954年)
- オッフェンバック『ホフマン物語』カペッキ、チェーザリ、ダンコ、デスタン、デスショーネ、ロンドン、シェーネン指揮、ウィーン国立歌劇場管弦楽団(1954年)
- モーツァルト:歌曲・アリア集、シモノー、ボーデ、ニューマーク、ジューヴ指揮、シャンゼリゼ劇場管弦楽団(1955年)
- グルック『オルフェオとエウリディーチェ』シモノー、ダンコ、ロスバウト指揮、コンセール・ラムルー、ロジェ・ブランシャール声楽アンサンブル(1957年)
- R.シュトラウス『無口な女』ミリンコヴィッチ、プリュマッハー、プライ、ヴンダーリヒ、ホッター、ギューデン、ベーム指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1959年)
- バッハ『ミサ曲 ロ短調』メリマン、シモノー、ナイトリンガー、シェルヘン指揮、ウィーン国立歌劇場管弦楽団、合唱団(1959年)
- ヘンデル『メサイア』シモノー、メリマン、リチャード・スタンデン、シェルヘン指揮、ウィーン交響楽団、ウィーン・アカデミー室内合唱団(1959年)
脚注
- ^ Richard Turp (Autumn 2011) (英語), In Memoriam: Pierrette Alarie (1921-2011), 52, pp. 12
- ^ a b Renée., Maheu, (1988). Pierrette Alarie, Léopold Simoneau : deux voix, un art. Libre expression. ISBN 2891113489. OCLC 18642980。
- ^ (フランス語) Mlle Pierrette Alarie boursière du Curtis Institute pour un an, (1943-04-21), pp. 10, ISSN 0317-9249
- ^ a b Christophe Huss (2011-07-12) (フランス語), La soprano Pierrette Alarie s'éteint, pp. B7, ISSN 0319-0722
- ^ C. G. (1972-08-18) (フランス語), Les Simoneau s'exilent, pp. A1 et A5
外部リンク
- ピエレット・アラリーとレオポルド・シモノーへのインタビュー - 1950年代のザルツブルクにて(YOUTUBE - 英語音声・翻訳字幕あり)
- ピエレット・アラリーのページへのリンク