ヒッタイトの台頭とエジプト・ミタンニ同盟
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「エジプト第18王朝」の記事における「ヒッタイトの台頭とエジプト・ミタンニ同盟」の解説
長きにわたってシリアの支配権を巡って対立を続けていたエジプトとミタンニの関係は、アメンヘテプ2世の治世晩年から変化し始めた。これはアナトリアで勢力を拡大するヒッタイトがシリアへ侵入する動きを示したためである。とりわけトゥドハリヤ1世の時代ではその傾向が顕著であり、ハラブ(アレッポ)、ミタンニを相次いで破り北シリアに侵入した。この事態を受けて、エジプトとミタンニは長年の対立を収束させて講和の席を設けることになった。トトメス4世時代にこの講和は成立し、トトメス4世の後宮にミタンニ王アルタタマの娘が入り、同盟関係が結ばれた。こうしてエジプトとミタンニの同盟を軸にシリア地方の政治情勢は安定することになった。 アメンヘテプ3世もこの路線を継承しており、エジプト・ミタンニ同盟は継続された。彼はミタンニ王シュッタルナ2世の娘ギルヒパ(英語版)を娶っており、婚姻を軸にした同盟が行われていた。トトメス4世やアメンヘテプ3世はこれらの婚姻を成立させるために婚姻を繰り返しミタンニに打診していた。アメンヘテプ3世はギルヒパを娶って以降、他のオリエント世界の諸国との間にも同様の関係を結ぶ方針を立て、数多くの王女がエジプトの後宮に輿入れした。具体的な所ではカッシート朝バビロニアの王女2人や、アルサワ(キプロス)の王女の存在が知られている。 こうした婚姻外交はエジプトに異国の王女が嫁ぐことはあっても、エジプトの王女が外国に嫁ぐことは無いという一方通行のものであった。カッシート朝バビロニアの王カダシュマン・エンリル1世(英語版)がエジプト王女との婚姻を依頼した際には、アメンヘテプ3世は取り付く島も無くこれを拒否している。つまりは、アメンヘテプ3世はエジプトを上位としたオリエントの国際秩序を希求していたのであった。こうした王女の輿入れの見返りとして、エジプトから周辺諸国に膨大な量の金が提供された。オリエントの各国はしばしばエジプトに金を求める外交書簡を送っており、こうして提供される金はエジプトの影響力を広く浸透させるのに役立ったのである。
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