パークス襲撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/07 16:09 UTC 版)
慶応4年(1868年)2月30日、イギリス公使ハリー・パークスが明治天皇に謁見するため宿所の知恩院から御所に向う途上、三枝は同志朱雀操と2人でパークス一行に斬り込んだ。三枝らはイギリス兵9人に負傷を負わせるが、一行の警備は厳重であり、朱雀はパークスに同行していた護衛の薩摩藩士中井弘との斬り合いで胸部を刺され、後から駆けつけた土佐藩参政後藤象二郎に斬られて倒れたところを中井に首を刎ねられ、三枝も重傷を負ったところを警備兵に捕縛され襲撃は失敗に終わる。3月4日、三枝は粟田口刑場で斬首され、朱雀の首と共に3日間晒された。享年29。 処刑2時間前の三枝と中井弘により首を打たれた朱雀の写真が今に残されている。この襲撃を共謀した川上邦之助、松林織之助、大村貞助らは密かに隠岐島送りとされた。 新政府では三枝らの身分を武士から平民に落し罪人として処刑、尊王攘夷の志士としての経歴を持ちながら、殉国の志士を記した殉難録稿には掲載されず、靖国神社にも祀られていない。墓所は京都市東山区・霊山墓地。
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