バルト・ドイツ人の再移住 (1939年–1944年)
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「バルト・ドイツ人」の記事における「バルト・ドイツ人の再移住 (1939年–1944年)」の解説
1939年8月、ドイツとソ連の間で独ソ不可侵条約が締結され、リトアニアはドイツ、ラトビアとエストニアはソ連の勢力圏となることが合意された。そしてこの条約により、ラトビアとエストニアに住むバルト・ドイツ人のドイツ勢力圏への再移住が取り決められた。 バルト・ドイツ人の新たな移住先は、主にヴァルテラント帝国大管区やポーランド総督府領とされた。これらはいずれもドイツがポーランド侵攻の結果獲得した領土である。再移住は1939年から始まり、1940年初めの時点でラトビアから約51,000人、エストニアから約13,700人が再移住した。1940年8月にバルト諸国がソ連に併合された後、1941年3月にラトビアから約10,500人、エストニアから約7,000人が再移住した。 独ソ戦がドイツ劣勢となり、バルト諸国地域にソ連赤軍が迫った1944年末から1945年にかけて、多くのバルト・ドイツ人は西方へ避難を開始した。避難は主に海路を用いて行われたが、1945年1月30日には多くの避難民を乗せたヴィルヘルム・グストロフ号がソ連の潜水艦に撃沈され、9400人あまりの犠牲者を出した。
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