バギルミ王国・ワダイ王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/11 19:11 UTC 版)
「チャドの歴史」の記事における「バギルミ王国・ワダイ王国」の解説
詳細は「バギルミ王国(英語版)」、「ワダイ王国(英語版)」、および「コトコ王国(英語版)」を参照 同時期に、南東にはイスラム教のバギルミ王国(英語版)、東にはワダイ王国(英語版)が登場した。3つの国は、北部のオスマン領への奴隷貿易で富を築いたものの、互いの勢力争いにより衰退していった。 この頃から、1880年代に始まるヨーロッパ列強によるアフリカ分割を控えて、ヨーロッパ人によるアフリカ大陸内陸部の探検が始まった。まずイギリス人のディクスン・デンハムとヒュー・クラッパートンが1822年にチャドに到達した。次いで、トリポリから南下したドイツ人のハインリッヒ・バルトが1853年に周囲を含めて探査し、1870年と1871年にはやはりトリポリからドイツ人のギュスタフ・ナハティガルがチャドを調べた。チャド探検の拠点はチャド湖南西部のクカワである。1884年から1885年にかけてベルリン会議では、フランスがリビアより西のアフリカの大半を獲得したが、ドイツもチャド湖南岸からカメルーンという形で現在のチャドの一部を植民地とした。 そして、カネム・ボルヌ帝国など3カ国は1883年から1890年にかけてスーダンから侵入したラビーフ・アッ=ズバイル(英語版)によって滅亡に追いやられた。1890年代にはフランスが、チャド湖のカメルーンよりの領域の諸部族と交渉を行った。1891年にフランスは、カネム・ボルヌ王国の保護を口実にチャドへの侵入を開始した。1894年にはウバンギ・シャリ(1894年 - 1910年、現中央アフリカ共和国)をフランス領とした。
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