ニコラ・ピエトランジェリ (Nicola Pietrangeli , 1933年 9月11日 - ) は、チュニジア ・チュニス 生まれのイタリア の男子テニス 選手。。1959年 , 1960年全仏選手権_ 男子シングルス2連覇を達成し、イタリア 人のテニス選手として最初の4大大会 優勝者になった。1954年 から1972年 までデビスカップイタリア代表 選手を務めたピエトランジェリは、当時のイタリア・スポーツ界を象徴するような存在だった。彼は「ニッキー」(Nicky) という愛称で呼ばれた。
来歴
ニコラ・ピエトランジェリは1954年 から現役引退する1972年 まで18年間デビスカップイタリア代表 選手だった。デ杯代表選手となった翌年、1955年全仏選手権 男子ダブルスで、ピエトランジェリはデ杯のチームメートであるオルランド・シローラ(イタリア語版 ) と組んで初めての4大大会 決勝進出を果たしたが、ビック・セイシャス /トニー・トラバート 組に1-6, 6-4, 2-6, 4-6で敗れ、最初の挑戦では準優勝に終わっている。この年、デ杯イタリア代表はヨーロッパ・ゾーン決勝でスウェーデン を勝ったが、インターゾーン決勝でオーストラリア に5戦全敗で敗れた。ピエトランジェリとシローラのペアは、1956年ウィンブルドン選手権 男子ダブルスでも準優勝がある。1959年全仏選手権 男子シングルス・男子ダブルスの単複2冠を獲得し、テニス経歴の全盛期を迎えた。男子シングルス決勝ではイアン・フェルマークに3-6, 6-3, 6-4, 6-1で勝ち、シローラとのダブルスではロイ・エマーソン /ニール・フレーザー 組を6-3, 6-2, 14-12で破って、4年ぶり2度目の決勝進出で初優勝を決めた。こうして、ピエトランジェリはイタリア 人のテニス選手として最初の4大大会 優勝者になり、イタリアの国民的英雄として尊敬を集めるようになった。
1960年全仏選手権 では男子シングルス決勝でルイス・アヤラ を3-6, 6-3, 6-4, 4-6, 6-3で破り、大会2連覇を達成した。この年は、あまり得意ではないウィンブルドン選手権 でロッド・レーバー との準決勝に進出している。デビスカップイタリア代表 は1960年 に初めてのワールドグループ決勝に勝ち上がった。ヨーロッパ・ゾーンを制した後インターゾーン決勝でアメリカ を3勝2敗で倒したが、ワールドグループ決勝ではオーストラリアに1勝4敗で敗れ、デ杯初優勝を逃す。ピエトランジェリはニール・フレーザー に11-9, 6-3, 1-6, 6-2で勝ち、チーム唯一の白星を挙げた。ところが、1961年全仏選手権 男子シングルス決勝でピエトランジェリはマニュエル・サンタナ に6-4, 1-6, 6-3, 0-6, 2-6で敗れ、大会3連覇を逃してしまう。デ杯でも2年連続のワールドグループ決勝進出を果たしたが、オーストラリアには5戦全敗で終わった。
1963年 のデビスカップを最後に、ダブルスのパートナーであったシローラが現役を引退する。ピエトランジェリとシローラのペアは、デ杯のダブルスでイタリア代表最多記録となる34勝8敗の戦績を残し、今なおイタリアの「ベストダブルスチーム」としてデ杯の公式記録に残っている。シロラの引退後、ピエトランジェリにも力の衰えが訪れ始め、イタリア代表はヨーロッパ・ゾーンから上に勝ち進めなくなった。ピエトランジェリは1964年全仏選手権 男子シングルスで3年ぶり4度目の決勝進出を果たしたが、またもやマニュエル・サンタナ に決勝で敗れ、2度目の準優勝に終わる。これでピエトランジェリの全仏選手権決勝は2勝2敗で終わった。
ピエトランジェリはデビスカップ ではイタリア代表歴代1位となる「120勝44敗」(シングルス78勝32敗, ダブルス42勝12敗)の戦績を残した。出場回数「18回」もイタリア代表のトップである。最後の年には、ピエトランジェリはアドリアーノ・パナッタ とダブルスを組む機会があった。1976年 にはデビスカップイタリア代表 監督を務め、イタリアをデ杯初優勝に導いた。決勝相手はルイス・アヤラ 監督率いるチリで、ピエトランジェリは1960年全仏選手権 に続いて“デ杯監督対決”でもアヤラに勝ったことになる。1986年 、ピエトランジェリはイタリア 人のテニス選手として最初の国際テニス殿堂 入りを果たした。
全仏選手権の成績
男子シングルス:2勝 (1959年, 1960年) [準優勝2度:1961年, 1964年]
男子ダブルス:1勝 (1959年) [準優勝1度:1955年] (1959年は単複2冠制覇)
混合ダブルス:1勝 (1958年)
外部リンク