ドライデンとリンダベリー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 10:19 UTC 版)
「プルデンシャル・ファイナンシャル」の記事における「ドライデンとリンダベリー」の解説
1875年にジョン・フェアフィールド・ドライデン(John F. Dryden)によって「プルデンシャル友愛組合」(Prudential friendly society)としてニューアークに設立された。従来の当時の生命保険は掛金・保険金とも高額で、一握りの裕福な上流階級の人々が加入しているにすぎなかった。しかし大不況にあえぐ庶民に対しても丈にあった保険を展開しようと試みたのである。まず「プルデンシャル」というのがイギリスのプルーデンシャル(現Prudential.plc)の商号を使ったものである。イギリスではゼネラル・アクシデント(現アビバ)やプルーデンシャルが労働者保険を普及させていたが、ドライデンは現地調査をして、週に3セントという非常に安い掛金で加入できる労働者保険をアメリカで初めて販売した。1911年にドライデンは死んだ。プルデンシャルは少数株主による係争などかなりの困難を伴いながら、1915年には実質的に相互会社となって経営者支配を確立した。この改組はリンダベリー(Richard V. Lindabury, 1850-1925)の主導で行われた。リンダベリーは、1905年アームストロング調査のときメットライフとプルデンシャルの両社を代表し、また後のプジョー委員会でジョン・モルガンらを弁護していた。こうしてプルデンシャルの証券投資はモルガン流、あるいはエジソン流になっていった。1928年にはメットライフと他8社を抱きこんだ保険料カルテルを実現した。なお、1926年にフランクリン(Franklin D'Olier)が入社した。
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