ディキシークラット党の指名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 15:00 UTC 版)
「1948年アメリカ合衆国大統領選挙」の記事における「ディキシークラット党の指名」の解説
トルーマンの公民権綱領採択で民主党全国大会を後にした代議員達は、直ぐにアラバマ州バーミングハムの市民公会堂で集会を開き、また新たな政党を結党し、これを「州権」民主党と名付けた。一般にはディキシークラット党と呼ばれ、南部の人種分離政策とそれを維持するジム・クロウ法の継続を主目標とした。サウスカロライナ州知事ストロム・サーモンドは会場からの退出を主導しており、党の大統領候補になった。ミシシッピ州知事フィールディング・L・ライトが副大統領候補の指名を受けた。ディキシークラットは選挙に勝てるとは思っていなかったが、トルーマンから南部州の票を奪い、どの候補者も過半数を取れない場合に連邦議会下院での選挙に持ち込まれるので、そこでトルーマンかデューイにその支持と引き換えに人種問題に関する譲歩を引き出そうと望んだ。トルーマンが選挙に敗れた場合でも、ディキシークラットの脱党で民主党は国政選挙に勝つためには南部の支持が必要なことを示し、さらにこの事実が北部や西部の民主党の間の公民権支持派を弱めることになると期待した。しかし、南部の民主党指導者の大半(例えばジョージア州知事ハーマン・トールマッジやテネシー州の「ボス」エドワード・H・クランプ)が党の支持を拒んだとき、その力は弱まった。トルーマンは現職大統領であるにも拘わらず、アラバマ州の候補者名簿には載らなかった。
※この「ディキシークラット党の指名」の解説は、「1948年アメリカ合衆国大統領選挙」の解説の一部です。
「ディキシークラット党の指名」を含む「1948年アメリカ合衆国大統領選挙」の記事については、「1948年アメリカ合衆国大統領選挙」の概要を参照ください。
- ディキシークラット党の指名のページへのリンク