ディオニュシオス2世治世下のディオン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/27 06:56 UTC 版)
「シュラクサイのディオン」の記事における「ディオニュシオス2世治世下のディオン」の解説
紀元前367年にディオニュシオス1世が死んでその息子ディオニュシオス2世が新しい僭主として即位するとディオンはカルタゴの脅威を除くための方策を提議し、僭主が平和を望むならばディオンがリビュアに渡って和平のための処置をするし、戦争を望むならば自費で三段櫂船50隻を提供すると述べた。ところが、群臣たちはディオンに嫉妬して彼が僭主の地位を狙っていると讒訴し、当のディオニュシオス2世も酒と女や下卑た遊びに溺れて放蕩生活をするという絵に描いたような暗君であった。それらの遊びに耽らなかったことをが輪をかけ、ディオンは僭主とその群臣たちから疎まれた。とはいえ、ディオンの側にも原因が皆無と言うわけではなく、彼には「生まれつき尊大な性格と人の近づけない付き合いにくい荒さがあった。現に甘言で耳が腐った若い人から見ると、相手として無愛想で素気ないばかりでなく、親しく付き合ってこの人の性格の率直と高貴を喜んでいる人の多くも、人に接する態度を非難して、頼みにくるものを政治家に似合わず粗暴に扱うと言っていた」(引用にあたって一部語句を改めた)。 そこでディオンはディオニュシオス2世の性格を矯正して徳性を培養しようとし、プラトンを再び招いた。これを受け、反ディオン派はその対抗馬として先代僭主に追放されていた人物で、僭主制の支持者であったフィリストスを追放先から呼び寄せた。さらに反ディオン派は彼を誹謗中傷したため、ディオンはディオニュシオス2世がプラトンの教育によって軟化しなければ彼を退位させて民主政を敷くことを決めた。
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