チャールストン防衛軍に対する作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/08 00:18 UTC 版)
「南部沿岸戦線 (南北戦争)」の記事における「チャールストン防衛軍に対する作戦」の解説
1862年6月になって、陸路チャールストンを脅かす動きが始められた。北軍はチャールストン港の南にあるジェイムズ島を占領しようとして6,500名の部隊を上陸させた。6月16日、南軍は勢力で北軍の3分の1に過ぎなかったが、セセッションビルのラムナー砦で北軍の攻撃を撃退した(ジェイムズ島の戦い)。その後北軍はチャールストン市を包囲し、6月21日に市内に補給物資を運び入れている鉄道を妨害するために動いた1個連隊が南軍の1個連隊の宿営地を急襲して壊走させた(シモンズブラフの戦い)。 北軍は南軍への貿易製品、物資および武器の出入りを妨害することを目論んで、大西洋とメキシコ湾の連合国海岸の封鎖を行ったが、チャールストン港の奪取までには結びつかなかった。1863年4月、北軍は海陸協働でチャールストン港の占領を目指したが、4月7日に起こった第一次チャールストン港の戦いでは、北軍の鉄被覆艦1隻が沈められただけで撤退した。 1863年7月10日、北軍はチャールストン港口に浮かぶモリス島のワグナー砦に攻撃を始めたが撃退された(第一次ワグナー砦の戦い)。7月16日、ワグナー砦への攻撃から南軍の目を逸らすために、北軍は再びジェイムズ島に上陸して、グリムボールズランディングの戦いを起こしたが、決着は付かなかった。7月18日、北軍は再度ワグナー砦への攻撃を始め、アフリカ系アメリカ人からなる第54マサチューセッツ連隊が先鋒を務めて激しい白兵線にまで持ち込んだが最後は撃退された。北軍は参戦した5,000名のうち1,515名の損失を出すという高い損失率になった(第二次ワグナー砦の戦い)。 北軍は2度も撃退されたワグナー砦の包囲を始め(第二次チャールストン港の戦い)、8月17日からはこの島からサムター要塞やチャールストン市内への砲撃を行ってかなりの損傷を与えた。最終的に9月7日、北軍はワグナー砦を占領し、9月9日にはサムター要塞への上陸を試みたが撃退された(第二次サムター要塞の戦い)。サムター要塞やチャールストン市は南軍の支配のままに残った。
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