タリファへの軍事行動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 01:04 UTC 版)
「ムハンマド2世 (ナスル朝)」の記事における「タリファへの軍事行動」の解説
マリーン朝はその後もジブラルタル海峡の重要な港湾都市であるタリファを含むイベリア半島における前線基地を維持し続けていたが、その一方でムハンマド2世は1290年にサンチョ4世とトレムセン(ザイヤーン朝)の統治者との間で協定を結んだ。そしてカスティーリャがタリファへ、ナスル朝がその他のマリーン朝の占領地へ攻撃を加えた。さらにザイヤーン朝が北アフリカのマリーン朝の支配地に対する戦争を開始した。この時に結ばれた協定によれば、カスティーリャは6つの国境の要塞との交換条件で攻略後のタリファをナスル朝へ引き渡すことになっていた。1291年の11月と12月にはアラゴン王ジャウマ2世(在位:1291年 - 1327年)がサンチョ4世と会い、マリーン朝に対する戦争に協力することで合意した。 1292年10月にカスティーリャはアラゴンの海軍とナスル朝から支援を受けてタリファを攻略することに成功した。しかしながら、カスティーリャは合意に基づいてナスル朝から6つの国境の要塞を手に入れたにもかかわらず、ナスル朝へのタリファの割譲を拒否し、12月にムハンマド2世がコルドバでサンチョ4世と会って以降も状況は変わらなかった。騙されたと感じたムハンマド2世はマリーン朝へ寝返った。そして北アフリカへ向かい、1293年10月24日にタンジェでアブー・ヤアクーブと面会し、数多くの贈り物を持参して友好関係と許しを求めた。そして両者はカスティーリャに対抗する同盟を結ぶことで合意した。しかし、1294年のマリーン朝とナスル朝によるタリファへの包囲攻撃は失敗に終わり、その後タリファは二度とイスラーム教徒の手に渡ることはなかった。この軍事作戦の失敗の後、マリーン朝は北アフリカへの撤退を決めた。その後ナスル朝はアルヘシラスや地元住民の抵抗を退けたロンダを含むかつての前線であった都市の支配を回復した。
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