ソウルオリンピックに初選出・日本女子最高の25位
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「浅井えり子」の記事における「ソウルオリンピックに初選出・日本女子最高の25位」の解説
1988年1月の大阪国際女子マラソンには、同年9月開催のソウルオリンピック女子マラソン日本代表の座と、日本女子最高記録をかけての出場となった。レース後半の30Km手前で、浅井は宮原美佐子と激しいデッドヒートを展開するが、35km過ぎで宮原のロングスパートを許して突き放され、41km過ぎでは荒木久美にもかわされて4位に落ち、最後は精根尽き果ててゴール手前でよろけて転倒してしまう程であった(宮原は日本女子初の2時間30分突破を達成、2位・宮原と3位・荒木の二人がソウル五輪代表即内定)。その後ソウル五輪女子マラソン日本代表において最後の3番手は、1987年11月の東京国際女子マラソンで8位の小島和恵と争う形となるも、1988年3月の日本陸上競技連盟の理事会において、浅井がなんとか滑り込みで念願のオリンピック初選出となった(落選の小島は補欠に)。 それから約半年経った、1988年9月開催のソウル五輪女子マラソン本番レースでは、国内選考会の大阪国際女子マラソンとは全く逆に、浅井が日本人トップでゴールした。しかし、ソウル五輪の数週間前に体調を崩した影響もあってか精神面でも万全で臨めず、メダル・8位入賞争いにはほとんど絡めないまま、結果浅井は25位(荒木・28位、宮原・29位)という成績に終わる。浅井も含めて日本女子の三選手は、改めて世界との大きな壁を痛感することとなった。
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