セルデン特許問題と業界団体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 05:16 UTC 版)
「SAE International」の記事における「セルデン特許問題と業界団体」の解説
米国の自動車業界は、特許問題で1900年から1911年まで全製造業者をまきこむ紛争状態だった。 米国の自動車業界は、リード・キャブ・トラストのウィリアム・C・ホイットニーが米国でのタクシー業連合としての活動をおこなうためアルバート・ポープから自動車部門を買収しエレクトリック・ビークル・カンパニーと社名を変更したうえで、連合の活動のためにジョージ・セルデンの自動車特許であるセルデン特許をも購入し自社のものとしていた。ところが、会社経営が苦境となったため、1900年頃からセルデン特許での特許収入による売上増を狙い、ライセンス料徴収を全自動車メーカー相手に開始する。これに従わなかった場合、訴訟をおこなった。自分たちが正しいと信じていたホイットニーとセルデンは最大のメーカーを相手にすべきと考え最初の訴訟を起こす。当時の米国最大の自動車メーカーはアレグザンダー・ウィントンのウィントン・モーター・キャリッジ・カンパニーだった。ところが、その訴訟は1902年になっても収束せず、お互いが助けを求めていた。 特許紛争を横目でうかがっていたパッカードとオールズモビルが手を組み1903年、MMA (Manufacturers Mutual Association:直訳は「製造業者互助会」)を結成。のち名称をALAM (Association of licensed automobile manufacturers、直訳は「特許自動車製造業者協会」) と変更したこの団体は、セルデンに話を持ちかけ、特許の代理人となる。こうして、ウィントンとALAMが対立することとなったが、最終的に、ウィントンもALAMに参加するようになる。こうして当時主流の自動車会社が参画したことでALAMは自動車特許の自動車メーカーへの安定した普及を目指す団体となったが、少量生産で逃げてしまうメーカーが現れるに及び、次第に業界の安定を担い、参画する事業者と参画できない事業者の選別を始めるようになる。安定したかのように見えた自動車業界だったが、フォードが参画できない業者となり、1903年にALAMがフォードを訴訟するにおよび、再び大きく業界内で対立がおこり、これは1911年のフォードの勝訴となって決着するまで続いた。
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