スーヨと日本人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/23 13:06 UTC 版)
スーヨ町は歴史的にみても日本と関わり合いが深く、第二次世界大戦中、当時フィリピンが日本の占領下であった約4年間(1941年から1945年)は1万人を越える日本人が居住しており、現地日系企業の旧三井鉱山によって銅の採掘が行われていた。現在でも当時の面影を残す要塞の跡が幾つか残存している。特に、隣町のセルバンテス町との境界付近から頂上までのベサン峠は、山下奉文(ともゆき)将軍がイフガオ州キヤガン郡で事実上降伏する手前の最終防衛地点であり、日本軍、フィリピン軍、アメリカ軍共に多くの犠牲者を払った。今でも多くの遺骨が峠の山々に残っているといわれている。また、戦時中タパオ高原にあった日本軍の見張り台は、リンガエン湾の海岸線が一望できることから、海側から攻撃するアメリカ軍の見張りに大きな役目を果たした。現在では観光地になっており、日本軍戦没者慰霊碑と日本庭園建設の予定地となっている。近年では高地で農業試験場が作られ、日本の農作物、特に珍しい作物の育苗試験が行われており、新たな特産物として注目を集めている。
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