ジャマイカ島代理総督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 06:04 UTC 版)
「ヘンリー・モーガン」の記事における「ジャマイカ島代理総督」の解説
ジャマイカ島に帰還したモーガンは、ポート・ロイヤルでは人気者であった。しかしイギリス本国では、パナマ遠征に対してのスペインの怒りの抗議があったため、モーガンとジャマイカ島総督モディフォードを拘留し、ロンドンに送らなければならなかった。ところが、2人とも船の中での病気を理由にして、釈放された。そればかりではなく、2人とも国家の役職つきでジャマイカ島に戻ってきた。モーガンは治安判事、海事裁判所長などを歴任し、1680年にはジャマイカ島代理総督にまでなった。モーガンはポート・ロイヤルから海賊船を締め出し、「3か月以内に海賊を廃業した者には土地を与えるが、廃業しない者は絞首刑にする」と最終通告を出した。しかし、裏ではずいぶん海賊を見逃していたようである。 その後、モーガンに政界から抹殺されたリンチ卿がジャマイカ島総督として赴任してきた。リンチ卿は、モーガンが海賊関係の裁判の判決を、陪審員を脅して変えさせていることや、モーガンの作った私党「ロイヤル・クラブ」の横暴ぶりをイギリス本国に伝え、そのせいでモーガンは全ての役職を解任させられた。 1688年に友人がモーガンが政界に復帰できるようにとりはからったが、1688年8月25日に死亡した。酒の飲みすぎもしくは肺結核が原因と言われている。モーガンの葬儀は、総督級のものだった。現在モーガンの墓は、地震のため海に沈んでいる。
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