ジャスト・ライク・エディの成功
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/19 23:18 UTC 版)
「ハインツ・バート」の記事における「ジャスト・ライク・エディの成功」の解説
1960年に交通事故でこの世を去ったエディ・コクランに追悼の意を表した2枚目の「ジャスト・ライク・エディ」がチャートの5位を記録し、ハインツの代表曲となった。ミークが、ハインツをエディ・コクランの様なロック歌手にプロデュースしようという企みとハインツがコクランから受けた影響が、この曲には表されている。 1964年、コクランの曲のカバーが大半を占めたハインツ唯一のアルバム、『トリビュート・トゥ・エディ』をリリース。「ジャスト・ライク・エディ」成功後も「カントリー・ボーイ」や「ユー・ワー・ゼア」をシングル・リリースするも、最高位5位を超える事もなく、デッカ・レコードを辞め、コロムビア・レコードに移籍。 コロムビア・レコードでは、デッカ・レコード時代よりはロック色の強いシングルを発表する。「クエスチョンズ・アイ・キャント・アンサー」や「ディギング・マイ・ポテトズ」等5枚のシングルを発表する。しかし、「ジャスト・ライク・エディ」を超えるヒットには結び付かなかった。 ハインツがコロムビアで活動していた頃、同じくミークが手掛けていたバンド、ザ・ハニーカムズも「ハヴ・アイ・ザ・ライト」の大ヒットを成功させたが、テルスターに代表されるスペーシーで時代を超えたジョー・ミーク・サウンドに、聴衆がついて行けなくなってきていた。そして公私共にミークが常にハインツに付き回っているため、ハインツにとっても負担となり、両者の関係が悪化していく。更にハインツのガールフレンドの存在が世間に知られ、ミークとの関係に決定的な溝を作る引き金ともなった。
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