シリア・ヒッタイト王国群
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/22 07:39 UTC 版)
「ヒッタイトの歴史」の記事における「シリア・ヒッタイト王国群」の解説
詳細は「シロ・ヒッタイト国家群(英語版)」および「リュディア」を参照 紀元前1160年までに、小アジアの政治状況は、その僅か25年前と比べると大きく様変わりしていた。その年、アッシリアは「ムシュキ」(フリギア)をアナトリア高地からメソポタミア最北部へと圧迫しており、そしてカスカ族(ハッティと黒海間の山国から来て古くはヒッタイトと敵対した民族)も間もなくそれに加わったと思われる。「ムシュキ」(あるいはムシュク)は西からカッパドキアを越えて逃れたみられる。最近発見された碑文の証拠によれば彼らの出自はバルカン半島の「ブリゲス」(Bryges)族であり、マケドニア人によって追い出されたと確認できる。 この時点でヒッタイトはアナトリアから姿を消していたが、いわゆる「新ヒッタイト」と呼ばれる数多くのヒッタイト王国群がアナトリアとシリア北部で勃興してきた。シリアの新ヒッタイト王国群の中で最も顕著なものはカルケミシュおよびメリド(英語版)(後のマラティヤ付近)にあったものである。それらはヒッタイト王国の継承者であった。これらの新ヒッタイト王国群は、紀元前8世紀にはアッシリアのサルゴン2世の治世の間にカルケミシュが侵略され、更に数十年後にはミリドも侵略されて、次第にアッシリアの支配下に入っていった。 タバル(英語版)(古代ギリシア語: Τιβαρηνοί - Tibarenoi、ラテン語: Tibareni、ヨセフスのラテン語: Thobeles)として知られる広大で強い国がアナトリア南部の大部分を占めていた。かれらの言語はルウィ語であったかもしれない。アナトリア象形文字を使って書かれたルウィ語の碑文でそう証言されている。 最終的に、楔形文字ルウィ語とアナトリア・ヒエログリフは、新たに登場した画期的なアルファベット(en:Alphabets of Asia Minor)によって廃れた。アルファベットは(後にフリギアに名を変えたブリゲス族とともに)エーゲ海文明から、そしてフェニキア人やシリアの隣の人々から、ほぼ同時的に入ってきたとみられる。[要出典]
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