シュエポ、マニワ付近の戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 04:24 UTC 版)
「イラワジ会戦」の記事における「シュエポ、マニワ付近の戦闘」の解説
1944年10月下旬より第31師団はシュエボ付近をなるべく長く保つ任務を受けていた。第31師団はシュエボ北方カンバルには歩兵第58連隊、シュエボには歩兵第124連隊、サゲイン付近には歩兵第138連隊と師団砲兵隊を配置し準備した。カンバル方面では、12月10日第15師団の後衛を収容した後、12月26日より英第19インド師団の攻撃を受けた。第58連隊はカンバル北方で英第19インド師団を待ち伏せして阻止していたが、包囲の危険を感じ、1月1日夜に師団命令によってカンバルを南下して離脱した。第58連隊撤退に伴いシュエボにイギリス軍が進撃してきた。第124連隊を主力として師団砲兵隊の一部を有する日本軍は1月7日、8日とシュエボにおいてイギリス軍と交戦、英軍が退路遮断の構えを見せたため、第31師団はイラワジ湖畔に後退した。 第15軍隷下の第33師団は1944年末よりマニワ平地へ移動し、歩兵第213連隊はマニワをなるべく長く確保する任務を、同連隊の第3大隊はブダリン占領の任務を受け配置についた。1月5日より南下してきた英第20インド師団の第32旅団がブダリンを攻撃した。第3大隊は約100名しかおらず、しかもブダリンは平らな土地だったため苦戦した。1月9日夜、撤退の命令を受けて第3大隊はブダリンを脱出した。さらに南下する英第20インド師団は、1月12日頃よりマニワを守る歩兵第213連隊の陣地にぶつかった。イギリス軍の航空支援にも負けず第213連隊は防戦したが、陣地が破られそうになったため、21日夜マニワを撤退した。 マニワからより西のガンゴウは、第33師団歩兵第215連隊の第3大隊が1944年11月より占領していた。1月10日、集中爆撃とともに英ルシャイ旅団がガンゴウを攻撃。兵員の損害を恐れる守備隊はそのまま撤退した。日本軍はガンゴウからパコックに続く道に注目せず、スリム中将は企図の秘匿に成功した。
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