シャルル4世_(ロレーヌ公)とは? わかりやすく解説

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シャルル4世 (ロレーヌ公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 07:22 UTC 版)

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シャルル4世

シャルル4世(Charles IV, 1604年4月5日 - 1675年9月18日)は、ロレーヌ公(在位:1624年 - 1625年、1625年 - 1634年1661年 - 1675年)。ドイツ語名ではカール4世(Karl IV)。父はロレーヌ公フランソワ2世、母はザルム女伯クリスティーナ。ロレーヌ公ニコラ2世フランスルイ13世の弟オルレアン公ガストンの2番目の妃マルグリットの兄。

生涯

1621年に伯父アンリ2世公の娘で従妹のニコルと結婚し、1624年の伯父の死後、ニコルと共にロレーヌ公位を継承した。しかしその後、サリカ法に基づいて相続を処理しなおすこととなり、翌1625年に父が一旦ロレーヌ公位に即き、数日後に譲位される形で改めてシャルル単独で公位を継承した。

1631年、フランスでルイ13世の母マリー・ド・メディシスと弟のオルレアン公ガストンが政争に敗れ、フランスから追放されてロレーヌに逃げた。シャルルはガストンを匿い、妹マルグリットとガストンを結婚させたが、フランス軍の侵攻を受け降伏し、フランスへ譲歩を余儀なくされた。1634年にスペイン領ネーデルラントから支援を受けて反乱を起こしたが、フランス軍に鎮圧されてしまい、弟のニコラ2世に公位を譲り、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の下へ亡命した。三十年戦争ではオーストリア軍の将軍として活動した。

1652年フロンドの乱に介入したが失敗、1661年にニコラ2世から公位を譲られ復帰したが、1670年に公国はフランスに占領され、以後20年以上ロレーヌ家の一族は公国を取り戻すことがなかった。オランダ侵略戦争では皇帝軍の一員として参戦し、1675年にコンザールブリュックの戦いでフランスの将軍クレキを破り、トリーアを落としてクレキを捕らえたが、同年に71歳で死去した。甥のシャルル5世が公位を継いだ。

しばしば「シャルル3世」とも呼ばれるが、これは下ロレーヌ公シャルルを数えない場合の呼び名である。

子女

1621年にニコルと結婚したが1635年に離婚した(教皇庁から婚姻の無効は認められていない)。ニコルとの間に子供はいない。

1637年ベアトリクス・ド・キュザンス(1614年 - 1663年)と再婚、3人の子を儲けた。ただし、ニコルとの結婚関係は無効とされていないため、子供達に継承権は無かった。

1665年、マリー・ルイーズ・ダスプルモン(1652年 - 1692年)と3度目の結婚をした。

脚注

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参考文献

先代:
アンリ(ハインリヒ)2世
ロレーヌ(ロートリンゲン)公
バル公
1624年 - 1625年
ニコルの共同統治者として
次代:
フランソワ(フランツ)2世
先代:
フランソワ(フランツ)2世
ロレーヌ(ロートリンゲン)公
バル公
1625年 - 1634年
次代:
ニコラ(ニコラウス)2世
先代:
ニコラ(ニコラウス)2世
ロレーヌ(ロートリンゲン)公
バル公
1661年 - 1675年
次代:
シャルル(カール)5世



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