シャルルロワ要塞の築城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/06 09:56 UTC 版)
「シャルルロワ包囲戦 (1667年)」の記事における「シャルルロワ要塞の築城」の解説
詳細は「シャルルロワ要塞(フランス語版)」を参照 1659年のピレネー条約により、フランス王国とスペイン領ネーデルラントの国境が変更された。いくつかの要塞がフランスに帰属したことにより、モンスとナミュールの間の守備ががら空きになり、ブリュッセルへの道の障害がなくなった。 1664年にスペイン領ネーデルラント総督に就任したカステロ・ロドリゴ侯爵(英語版)は守備を強化しようとした。サンブル川流域にあるシャルノワ(Charnoy)は築城に適する、ナミュール伯領(つまりネーデルラントに属する)でもある数少ない場所にあった。シャルノワはスペイン王カルロス2世を記念する「シャルルロワ」という名前に改名された。 築城は9月中旬に始まった。スパイから築城の情報を仕入れたフランス王ルイ14世はシャルルロワの占領を決意した。脅威に直面したカステロ・ロドリゴ侯爵は築城が1665年から1667年の歳入の28パーセントを要したにもかかわらず、要塞の放棄および破壊を決断、スペイン兵は1667年5月27日までにシャルルロワから撤退した。
※この「シャルルロワ要塞の築城」の解説は、「シャルルロワ包囲戦 (1667年)」の解説の一部です。
「シャルルロワ要塞の築城」を含む「シャルルロワ包囲戦 (1667年)」の記事については、「シャルルロワ包囲戦 (1667年)」の概要を参照ください。
- シャルルロワ要塞の築城のページへのリンク